講演の記録1 デング熱


  昭和17年デング熱の大流行からみた現代の感染症
  エントロピー学会東京セミナーでの講演記録(1997年2月22日) 牧 潤二



  はじめに
 最初に、このような講演の機会を与えてくださいました、エントロピー学会東京セミナーの皆様に、お礼申し上げます。
 今日の私の話の中心となるのは、デング熱という病気についてです。このデング熱というのは、本来、熱帯や亜熱帯で流行する病気ですが、これが戦時中、日本で大流行しました。それで、最初に、私がそのデング熱の流行に興味を持ったきっかけについて、少しお話いたします。
 今の長崎大学医学部の前身に当たる、長崎医科大学におきまして、昭和17年3月、東亜風土病研究所という研究機関が設立されました。文字どおり、東アジアの風土病について研究する所ですが、その研究機関ができてから4ヶ月ほどしてから、その研究機関がある長崎市で、デング熱が大流行しました。
 それで、私としましては、そのような2つの出来事が偶然に起ることはありえるのか、と発想したわけです。偶然に起り得ないとしたら、1つのこじつけとして考えられるのは、その東亜風土病研究所でデング熱の研究をしていて、そのウイルスが漏れてしまって、長崎市で大流行した、というものです。いわゆるバイオハザードの可能性があるのではないか、ということで、まず、デング熱に興味を持ちました。
 もう1つ別に、偶然というものがありました。たまたまその当時の新聞記事を見ていたところ、ものすごく小さな記述ですが、昭和17年9月のある日に同時に、長崎市と神戸市でデング熱が流行し始めた、と出ていました。このように何百キロも離れた町で、ほぼ同じ日にデング熱が流行り始めることなど、偶然に起り得るのか、という疑問です。これを、ミステリー小説的に解釈すれば、当時の戦争に反対するゲリラ、あるいはアメリカのスパイがデング熱のウイルスを日本中に撒き散らした、ということにでもなるのかもしれません。
 実際、そのような可能性も含めて、これから、日本で昭和17年から19年にかけて、デング熱が流行した理由、時代的背景などについて、いっしょに考えていきたいと思います。

  デング熱のポイント
 まず、デング熱とはどのような病気かということですが、そのポイントを、このOHPにまとめてみました。
 医学の世界で一番よく使われている『ステッドマン医学大辞典』では、デング熱はこのように説明されています。「熱帯・亜熱帯の流行病で、デング熱ウイルスによって引き起こされ、ヤブカ属の蚊によって媒介される。重症度は4段階が認められる。Ⅰ度では発熱と全身症状、Ⅱ度ではⅠ度の症状と同時に出血(皮膚、歯肉、あるいは胃腸)、Ⅲ度ではⅡ度の症状に加えて興奮および循環障害がみられる。Ⅳ度では重いショック症状が起る」
 また、出血性デング熱、あるいはデング出血熱と呼ばれているものがありますが、これはデング熱と別の病気というわけではなく、デング熱の重症流行型で出血が多いもの、という位置づけになっています。いわば、デング熱のⅢ度あるいはⅣ度に当たるようなものが、出血性デング熱、あるいはデング出血熱と呼ばれるものである、と理解しておけばよいと思います。ちなみに、何度もデング熱に感染すると、免疫反応が強くなって、デング出血熱という形になりやすい、という見方もあります。また、その出血型のデング熱に対して、従来からの典型的なデング熱は、古典型と呼ばれることもあります。
 このデング熱のⅠ度といいましても、実際の症状はかなり強いものでして、突然に高熱が出て、関節が痛んだり、発疹が出たりして、ほとんど動けなくなってしまいます。また、後からお話する長崎市でのデング熱の患者では、尿の中に蛋白が出る、いわゆる蛋白尿がみられた症例が40%くらいあります。ですから、インフルエンザ以上に強い症状が出る、と見てもよいと思います。ただし、デング熱の症状が出てから1週間くらいすると、大体、デング熱の症状は治ります。ですらか、日本では一時、デング熱は俗称として「七日熱」という言い方をされていたこともあります。ただし、これは今現在、「七日熱」とか「七日病」と呼ばれているものとは違います。
 ところで、デング熱は治りやすい、つまり予後がよい、と一般に言われています。しかし、必ずしも、そうではありません。特にデング出血熱になりますと、致死率は5%前後に上がります。世界でみますと、年間でデング熱またはデング出血熱で約2万4000人が死亡しています。致死率は比較的低いデング熱で2万人以上が死亡しているわけですから、デング熱に感染する人の数はかなり多い、と推測できます。
 デング熱の病原体はデングウイルスというウイルスです。それを媒介するのが蚊なのですが、蚊の中でも主にネッタイシマカという蚊が、デング熱を媒介しています。もう1つ、これからのお話の中でのポイントとして、ぜひ覚えておいていただきたいのは、そのデング熱を媒介するネッタイシマカという蚊の親戚に当たるような蚊の1つに、ヒトスジシマカという蚊があります。そして、このヒトスジシマカは、日本にも少しいる、ということです。つまり、日本にはデング熱が流行する素地は今もあるし、昔もあった、ということになります。ちなみに、このヒトスジシマカの形ですが、その名前の通り、背中の中央に一本の白い筋があるのが特徴です。また、季節的には、夏場にもいるのですが、むしろ、秋口に多く見られます。その戦時中の報告ですが、東京でもヒトスジシマカが11月末の時点でもいた、という報告があります。
 ですから、今年の秋には、ぜひ、そのような背中の中央に一本の筋のある蚊がいないか、注目していただければ、と思います。なお、このヒトスジシマカは、デング熱のほか、黄熱病(おうねつびょう)も媒介します。
 それから、デング熱の治療法ですが、今のところ、デング熱を予防するためのワクチン、あるいは治療薬といったものは、まったくありません。デング熱を発症したらら、今現在でも、対症療法で1週間くらい、辛抱するしかないわけです。ただし、一度デング熱にかかりますと、後は非常にかかりにくい状態になります。

  世界の感染症による死者
 ちなみに、年間での感染症の使者をこのOHPでまとめてみましたが、単独の病気としては結核などが多く、年間で300万人以上が死亡しています。マラリアも非常に多く、200万人以上が死亡しています。デング熱およびデング出血熱も、この16番目に出ていまして、年間で2万人以上の死亡があります。デング熱は予後か良いとは言われているものの、この2万人以上の死亡は決して無視できない数字です。
 デング熱の感染の危険性から言いますと、世界では、約25億人が感染の危険性があり、年間では、100カ国以上で、合計約2000万人がデング熱にかかっている、とみられています。

  日本の医療をいつの時点から顧みればよいのか
 これから戦時中の昭和17年から19年にかけて、日本で起ったデング熱の流行についてお話するわけですが、これには、どうしても、日本の医療制度というものが関わってきます。それで、このOHPでまとめてみましたが、この日本の医療制度については、いつ頃をスタートとして見ていけばよいかということですが、私の意見としては、それは1927年から見ていけばよい、と考えています。
 今、よく政治の1955年体制は終わったとか、最近では、日本経済は1940年体制である、などといわれたりします。そのような表現を借りれば、日本の医療は1927年体制である、と言えるのではないでしょうか。この1927年とは昭和2年で、健康保険制度が日本でスタートした年であるわけです。昭和の始まりとともに健康保険制度がスタートし、1960年代になって国民皆保険という形になって、今に続いているわけです。
 ちなみに、厚生省ができたのは昭和13年1月でして、それまでは内務省の1部局が、厚生省のようなことをしていました。厚生省の歴史より健康保険の歴史のほうが長い、ということになります。
 それから今、日本医師会は創立50周年の記念式典を今年の11月にするということで、準備を進めています。確かに、今の社団法人の日本医師会は昭和22年11月に発足していまして、今年で50周年ということになるわけですが、あの北里柴三郎を初代会長とした大日本医師会が大正5年に創設されています。この大日本医師会は、大正12年11月1日に解散し、そのまま法定日本医師会に移行します。この法定日本医師会は、あの戦時中、あらゆる団体が整理・統合される動きを背景として、戦時中の昭和18年に一度解散し、またすぐに、新しい日本医師会が設立されました。この昭和18 年にできた医師会が昭和22年に解散し、その年に、今の社団法人日本医師会ができたわけです。ここからが50年というわけです。
 一見、日本医師会はいろいろ断絶しているようですが、その構成メンバーは、同じ医師であります。メンバーが同じなのですから、形式上、組織が変わろうが、体質は大きく変化したとは思えません。その意味で、今年が日本医師会創立50周年というのは、少し変な感じがしております。むしろ、去年が大日本医師会創立80周年といったほうがわかりやすいような気がします。

  戦前での日本でのデング熱の流行について
 昭和17年から19年にかけて日本で流行したデング熱について、これからお話するわけですが、それまでに日本にデング熱がまったく入ってなかった、というわけではありません。
明治から大正時代にかけて、軍隊での連隊あるいは大隊といった集団の中で3回ほど流行った、という記録があります。その最初は明治36年、東京の麻布歩兵第一連隊です。デング熱は、外国でもそうですが、軍隊のように集団生活をしているところで流行りやすい傾向があります。
 また、民間レベルでみなすと、沖縄では、大正4年と昭和6年に大流行があった、とされています。その昭和6年に沖縄で大流行した時には、それが鹿児島県まで入って来た、といいます。
 また、昭和8年には和歌山市のある工場で、沖縄県で募集して来てもらった女性の工員さんからデング熱が広がり、35人がデング熱にかかった、という記録があります。いずれにしても、それまで日本本土でのデング熱の患者の発生は軍隊内か、沖縄を介したもので、患者の発生は散発的で、大流行には至りませんでした。ですから、昭和17年において、初めて日本本土の広範囲で、デング熱の大流行を経験することになるわけです。

  蚊と除虫菊と太平洋戦争の関係について
 何度も申しますが、デング熱を媒介するのは、蚊です。そして、その蚊を退治するためにあるのが蚊取り線香で、当時、その蚊取り線香の原料といいますか蚊をやっつける成分になっていたのが、除虫菊です。ちなみに、今の蚊取り線香は、除虫菊の成分を直接使うのではなく、合成した化学物質を使っています。
 それで、その太平洋戦争が始まるころ、昭和16年のころ、日本は除虫菊の世界最大の輸出国でした。世界で流通する除虫菊のおよそ4分の3は日本産のものである、とされていました。ですから、ある意味で、除虫菊は日本にとって、アメリカに対抗するための戦略物資の性格を持っていた、といえます。
 このような時代の中で、日本に対してアメリカは、昭和16年7月25日に、日本の資産を凍結します。それに対して、日本もアメリカ資産を凍結します。さらに、昭和16年8月1日、アメリカは、日本に対する石油の輸出を禁止します。その後の8月7日、日本は、貿易統制令に基づいて、除虫菊の輸出を統制することを決定します。要するに、除虫菊を輸出しないようにするわけです。もちろん、除虫菊以外にも輸出統制したものはいろいろあるのですが、この時の除虫菊の輸出統制については、戦略物資とみている人がいます。この人はお医者さんなんですが、医学的な見方でして、除虫菊の輸出を禁止したら、南方の戦場で、アメリカの兵隊は蚊取り線香が使えないので、マラリアやデング熱にかかって、戦力が落ちる。それに対して、日本は蚊取線香を十分に使って、南方の戦場で勝てる、という発想が、当時の日本や軍部にあった、というのです。
 ほんとうに当時の日本がそこまで除虫菊や蚊取線香を戦略物資と考えていたのかどうか、僕もいろいろ調べてみましたが、どうしても証拠は出ませんでした。ただ、アメリカが石油の輸出を禁止したのに対抗する形で、日本が除虫菊の輸出を統制したのは事実でして、それが、わずか1年後に、デング熱の大流行という形で、日本にとって非常に皮肉な形で跳ね返ってきます。

  デング熱の流行は予想されるものだった
 昭和17年の夏に日本でデング熱が大流行したわけですが、それがまったく予期せぬ出来事だったのかといえば、そうとは言い切れません。その流行の前から、一部の軍医などはデング熱に注目し、研究していました。このことについて、先に、少しお話しておきます。
 まず、昭和17年7月18日付で発行された『日本医学及び健康保険』という医学雑誌で、台北帝国大学の医学部衛生学教室教授の森下薫という人が、「タイ国バンコク在住邦人のデング熱罹患状況に関する小観察」という論文を発表しています。この小論文は、バンコクの日本人会員にアンケート調査をして、その結果をまとめたものですが、回答のあった272名中24%、66名が、デング熱に現在かかっているか、かかった経験がある、と答えています。また、そのかかった時期ですが、バンコクへやってきて3ヵ月以内という人が半分を占めています。
 また、フィリピン駐在米軍軍医部長の報告によれば、として、フィリピンでは、年間に、兵力1000につき101、つまりちょうど兵士の10%が1年のうちにデング熱にかかり、平均入院日数は6.7日である、としています。また、その期間中に見られた最も多い疾患は、花柳病、つまり性病、2番目がマラリア、3番目がデング熱、というこです。
 その論文が出てから1週間ほどたった昭和17年7月24日付けの『朝日新聞』に「『デング退治』に大手柄 若き軍医ワクチン制作に成功」という見出しの記事が出ました。
 それは日本国内のことではなく、ビルマのラングーンで日本の軍医がデング熱の病原体の人工培養に成功し、予防ワクチンの製作の緒をつけた、という記事です。見出しには「若き軍医ワクチン製作に成功」と出ていますが、記事をよく読んでみると、ワクチンの実際の製作にまでは至っていません。記事の最後で、このように書いています。「同中尉はかくして得た病毒を培養基によって予防ワクチンの製作を目指しており、すでに試薬は作られて目下実験中であり、デング熱を共栄圏から絶滅する日も間近いであろう」
 その記事から55年が経過した現在でも、このデング熱の予防ワクチンというものは、まだできていません。その軍医がデング熱を退治したわけでも、ワクチンを作ったわけでもありません。ですから、その記事は、いわゆる「飛ばし記事」だったと見ることもできるのですが、もう少し、時代や社会というものを読み取ったほうがよいのではないか、と、私は思っています。
 すなわち、大東亜戦争で南方に進出した日本軍は、南方の戦場で、まさにデング熱という病気に直面したわけです。そして、結構たいへんな病気であると気づき始めた。そして、何とかデング熱の予防をしたいという願望が、「若き軍医、ワクチン製作に成功」という形で記事になったわけです。
 今ご紹介した論文や記事が出た昭和17年7月の時点では、実際には日本でデング熱の患者が出ていたわけですが、それは公にはなっていません。その論文はバンコクのことですし、記事はラングーン発ですが、これから日本でデング熱が流行するということを、まさに暗示するものとなりました。
 なお、ワクチンを作ったということでその新聞に出た軍医は、河野という人ですが、この人については、後で、デング熱の人体実験についてお話しますが、ここでも出てきますから、ちょっと頭の隅に置いといていただれれば、と思います。

  すでに蚊に注目していた日本の軍医たち
 また、デング熱は蚊が媒介するわけですが、大東亜戦争が始まる少し前、昭和14年頃に、すでに日本の海軍の軍医は、蚊というものに注目していました。この昭和10年代半ばには、日本は、すでに中国大陸に侵攻し、日中戦争を始めていたわけですが、その帰還兵が大陸の風土病、特にマラリアを持ち帰ってくるのを、軍医たちは恐れていました。それで、日本と支那(中国)にどのような蚊がいるかということについて、海軍軍医大佐の宮尾績という人たちのグループが昭和14年の4月から10月にかけて、日本と中国で調査し、これを海軍の軍医の学会誌である『海軍軍医会雑誌』に発表しています。
 ここで実際に海軍の軍医たちが注目しているのは、マラリアを媒介する「アノフェレス」という種類の蚊です。それに属する蚊として日本に存在するのは、シナハマダラカと呼ばれるものがそうです。それについて、日本の都会や田舎などさまざまな所で蚊を採集し、蚊の種類について調べています。地域差がかなりあるようですが、日本全国で捕獲した蚊の全体の中では、シナハマダラカが4.4%を占めています。
 そのように、ある程度の頻度でアノフェレスという種類の蚊が見つかっており、当時の日本でマラリアが流行する素地はあった、と言えます。一方、この時の日本での調査では、なぜか、デング熱を媒介するヒトスジシマカについては、発見されていません。このあたりは、ちょっと不思議なところでもあります。
 一方、中国大陸沿岸や揚子江流域で採集した蚊においては、デング熱を媒介するヒトスジシマカが、1.4%という割合を占めています。また、マラリアを媒介する蚊として、シナハマダラカ、コガネハマダラカという2種類が発見されています。ほとんどはシナハマダラカなのですが、その2つを合わせると、13%の割合を占めています。中国大陸の方が、明らかに日本より高い割合で、マラリアを媒介する蚊が見られるわけです。

  日本でデング熱が流行し始めた昭和17年夏とは、どのような時代だったのか
 ここで、日本でデング熱が流行し始めた昭和17年の夏とは、歴史的に見ると、どのような時代だったのか、少し、お話しておきます。
 ここで、当時の年表を、お手元のレジュメの2ページ目にまとめてみましたが、まず、日本が大東亜戦争を始めたのが、昭和16年12月8日ですから、デング熱が日本で流行り始めたのは、その大東亜戦争の開始、つまり真珠湾攻撃から半年くらい経過した時点です。それまでの半年間は、マニラを占拠したり、シンガポールを占領、ラングーンを占領するなど、日本軍は南方のあちこちに戦線を拡大していきました。デング熱が風土病として存在するような地域に、日本人が次々と入っていったわけです。
 しかし、昭和17年の春から、戦局が変化します。この昭和17年の4月18日に、東京が初めて空襲に遭いました。そして、この昭和17年6月に、いわゆるミッドウェー海戦がありまして、日本軍が大敗北します。これで日本は、制海権を失いまして、戦局は大きく変化することになります。また、この6月から、いわゆるガダルカナル島の攻防が始まりまして、結局、ここでも日本軍が大敗北をします。
 つまり、ミッドウェー海戦などがありました昭和17年6月のころまでが、最も日本軍が南方のあちこち、太平洋のあちこちに進出していた時期でして、当然、本来、デング熱が風土病として存在している地域との交通が非常に活発であった、と考えられます。しかも、その時期は、日本は夏でした。まさに、このような時期に、デング熱が日本に入ってきたわけです。これは確率論的に見ましても、デング熱が入ってくるとしたらこのような時期である、といえます。

  昭和17年のデング熱の流行の概況
 では、これから、昭和17年のデング熱の流行した状況につきまして、当時の数少ない資料に基づいて、説明してまいります。
 まず、昭和17年の日本でのデング熱の患者は実際、どのくらい出ていたかということとですが、公式の数字は患者数が1万7554人、ということになっています。その地域別の数をOHPでグラフにしてみましたが、その患者数について厚生省予防課長の南崎雄七という人が『日本医事新報』の昭和18年9月4日発行号で、次のように書いています。
 「昨昭和17年7月、突如として発生せしデング熱は、長崎県1万3323、大阪府795、兵庫県1357、徳島県1、鹿児島県92、沖縄県1985、合計1万7554となって報告されているが、各方面各医学者の唱えるところによると、その実数は到底、この程度の数字ではないということである」
 このように、昭和17年に流行したデング熱の患者が1万7554人どころではないということは厚生省も認める所でして、かりにその実数が厚生省に報告されている数の5倍だとしたら、デング熱の患者数は10万人弱ということで、これは毎年流行しているインフルエンザの患者数に匹敵する数、ということになります。
 いずれにしても、デング熱の小規模の流行が散発的にあった、というのとはぜんぜん違います。

  そもそも何を介して日本に入ってきたのか
 その日本で流行したデング熱を媒介したのが蚊であることは間違いないのですが、その蚊がどうやって日本に来たのか、南方から飛んできたのか、あるいは船や飛行機で運ばれて来たのか、あるいは南方で感染した人が日本で発病して、この人を刺した蚊があちこちに飛びまわるとともに、蚊を増やして行ったのか、という問題があります。
 まず、大阪でのデング熱の流行ですが、これは新聞記事によりますと、南方で感染した人が戻ってきて、ここから広がった、とみなされています。しかし、その大阪での状況については、学会誌等ではキチンとした報告はありません。
 では、隣の神戸市の流行は、何から始まったのでしょうか。大阪から神戸に蚊が飛んで行った可能性はあるのでしょうか。要するに、デング熱を媒介するヒトスジシマカが、どれくらい飛ぶことができるのか、ということですが、これは当時の資料ですが、大体25メートルくらいしか飛ばない、とされています。ですから、いくら風に乗ったとしても、大阪から神戸にたくさんの蚊が飛んで行くようなことは、ちょっと、考えら得ません。
 その神戸でのデング熱の流行については、兵庫県衛生課の大城俊彦という人が『日本伝染病学会雑誌』の昭和18年6月号におきまして、神戸市で最初にデング熱の流行が起こった5つに地域について、その系統、伝播状況を報告しています。
 それによりますと、5ヵ所のうち4ヵ所の感染源は、南方から神戸に戻ってきた御用船、つまり政府に差し出した同じ船の乗組員です。その御用船での職種は、料理人、一等機関士、甲板倉庫番などさまざまです。
 その4人は、それぞれ神戸の自宅などでデング熱を発病し、うちの3人については、その発病から2~3週間後に、今度は家族が次々と発病しています。また、その家族が発病するころになりますと、近所でもデング熱の患者が出始めます。その2~3週間とい期間の内訳ですが、最初の患者の血液を吸った蚊の体の中で、デング熱のウイルスが増殖するのに10日前後、そのウイルスが増殖した蚊に刺されて発病するのに5日前後、それを合わせると2~3週間になる、と推測されています。
 その同じ御用船の乗組員以外に1人、デング熱の感染源とされている人がいます。この人もやはり船や港に関係ある人でして、先ほどの4人が乗っていた船とは別に、南方から帰ってきた御用船の荷役(にやく)に従事した沖中士の人です。この場合も、デング熱が家族に広がるとともに、地域に広がっています。
 ただ、その同じ船に乗って神戸に戻ってきた4人の発病した時期については、7月10日から7月31日までというように、3週間くらいの開きがあります。なぜ、このように3週間もの開きがあるのかということについては、その論文では分析・考察されていません。蚊に刺されてデング熱のウイルスが体内に入ったら、一般には1週間くらいで発病する、と見られているのです。ですから、1週間くらいの開きがあるのならわかるのですが、3週間くらいの開きがあるとすると、今一つ、その理由が分かりません。
 また、兵庫県衛生課は昭和17年の9月下旬から10月上旬にかけて、神戸のデング熱が流行した地域での防火水槽内で、デング熱を媒介するとされているヒトスシマカの幼虫がどの程度発生しているのか、調べています。それによりますと、流行した地区の防火水槽の46.2%でヒトスジシマカの幼虫が見られた、としています。また、流行していない地域での防火水槽では、ヒトスジシマカの幼虫の見られる頻度が10ポイント以上低くなりまして、32.9%でヒトスジシマカの幼虫が見られた、としています。

  長崎での流行と感染経路について
 では、最も流行が大きかった長崎では、どうだったのでしょうか。この長崎での流行については、早くから陸軍軍医学校が調査班を送って、調べています。その陸軍軍医学校調査班は昭和17年10月末時点で調査を締めくくり、その調査報告を、昭和18年3月に「長崎市に流行セル『デング熱』調査」という題で報告しています。
 まず、長崎でのデング熱の患者の発生状況ですが、このOHPにグラフにしたように、最初の患者が7月中旬に出て、8月上旬から原因不明の熱病の人が多数出ていたのですが、これが正式にデング熱だと決定されたのは、8月27日のことです。ですから、デング熱と正式にわかったのは案外遅い時期でして、その間、適切な対応が遅れた、ということになります。
 その8月末での長崎でのデング熱の公式患者数は1809人で、この数字だけでも長崎市の人口の約7%がデング熱にかかっていた、ということになります。そのうちすでに治癒していたのが772名(43%)です。ピークは9月の下旬で、もう涼しくなったはずの10月上旬でも2000人近くの患者が出ています。これ以降の数字は出ていないのですが、その報告書では、患者の発生は急速に減っていった、としています。
 しかし、実際には、別のグループの報告、具体的には伝染病研究所のグループの報告を見ますと、11月になっても患者は続発している、としています。また、その11月末の時点で、デング熱は、最初の患者が出た根源地域から隣接町内を伝わって、長崎市内の大部分の町内へ波及している、としています。
 いずれにしても、そのように10月上旬にもたくさんのデング熱の患者が出ているわけですが、これは、デング熱を媒介するヒトスジシマカという蚊が、むしろ、夏場より秋口に多い、ということを反映している、と考えられます。
 また、長崎市内で最初にデング熱が流行したのは、主として、職工、労働者の居留地である、とされています。また、その人たちは、主に、長崎の造船所で仕事をしている人、あるいは市の清掃に従事する人、とされています。また、長崎にいる陸軍の部隊でもデング熱の患者が18人ほど出た、としています。
 それから、デング熱による死者ですが、昭和17年9月10日現在で、そのデング熱による死亡者はなかったとされています。しかし、デング熱の患者のうち4人が、心臓麻痺、脳溢血、老衰などで死亡した、とされています。今年のインフルエンザの流行でお年寄りの死者がたくさん出たことがいろいろと報道されていますが、その長崎のデング熱の場合も、形式上の死因としては心臓麻痺、脳溢血、老衰かもしれませんが、これにはデング熱が大きく関与していた可能性があります。言い換えれば、デング熱にかからなければ死ななかったかもしれないわけです。また、その脳溢血などは、デング熱に特有の出血性の症状であった可能性もあります。
 その長崎でのデング熱の流行はどこからどのようにもたらされたか、ということですが、長崎で最初の患者が出てからそれがデング熱であると決定されるまでに1ヶ月半くらいの時間の経過がありますから、結局、長崎にデング熱が入ってきたルートについては、解明されていません。ただ、陸軍の軍医学校では、上海から長崎港に入ってきた船から下りた人たちがが怪しいとにらみまして、税関の乗船客名簿などをもとに、だいぶ調べたようです。その結果、その船から下りた人の中で、熱があったり腰痛を訴えている中国人を発見し、感染源ではないかと疑っていたようですが、これは推定にとどまっていて、断定はしておりません。
 長崎市内でも特にデング熱の流行した地域の特徴ですが、陸軍軍医学校調査班の報告では「水槽、水溜等の清掃はいまだ不十分にして、蚊の幼虫多数発育し」、「隣家への蚊の飛行は甚だ容易」、「墓地における花立てにも幼虫多数発生セル」、また「下層階級者多く蚊帳を使用するもの少なし」としています。
 注目されるのは長崎でどのような蚊がいたのかと言うことですが、軍医学校の調査班では、長崎市でのデング熱の流行地と非流行地で、いわゆる防火用水槽の水を採取しまして、どのような種類の蚊が羽化するか調べていますが、流行地の水から羽化した蚊については、デング熱を媒介する可能性があるヒトスジシマカが半分以上を占めています。それに対して、非流行地域で採取した水から羽化した蚊では、ヒトスジシマカは半分以下でした。そのように、ヒトスジシマカが多いこととデング熱の患者が多いことの関係をこの報告書では指摘していますが、ヒトスジシマカが多かったから、そこにデング熱が流行したのか、あるいは流行した結果としてヒトスジシマカが多くなったのか、つまり、因果関係なのか、ただの相関関係なのか、それとも別の関係なのか、といったことについては、陸軍軍医学校では考察はしていません。
 もう1つ注目されるのは、マライ沿岸に長く停泊して香港経由で長崎に入港した船の調査です。この船の甲板の水溜まりの中にいた蚊の幼虫などを採取しまして、それを孵化させたところ、すべて、デング熱を最もよく媒介する蚊である、ネッタイシマカになった、と報告しています。また、この船員の一部、2割弱は、マライでデング熱にかかっていたのですが、長崎に入港したときにはデング熱は治っていた、といいます。また、さらに、この船が入港してから、長崎市に住んでいる造船関係者や家族が、その船に出入りした、といいます。この船もネッタイシマカといっしょにデング熱を運んできた可能性があるわけですが、結局、詳しい調査は無理でした。
 例えば、その船からネッタイシマカが長崎市に飛び出していって、長崎市でそれが大量に羽化して、デング熱をはやらせた、ということも推測できるわけですが、しかし、実際には、長崎市内での何ヶ所かの調査では、ネッタイシマカは発見されていません。
 このように、長崎市の感染源については、結局、特定できませんでした。ただ、陸軍軍医学校としては、その船に出入りした長崎市内の関係者を介してデング熱が長崎に入った、ということもかなり可能性がある、とみています。
 この報告書では、最後に、デング熱の予防対策について、触れています。まず、その当時、蚊が増えたことについて、「近時、防火用水等のによる蚊の発生、急増したる」としたうえで、その対策について、真っ先に挙げているのは、防火用の水を溜めている桶にきちんとふたをすること、です。実際、それに蓋をすることがどの程度、効果があるのか、よく分かりません。むしろ、日光を当てつつ、よく水を換えたり、よく掃除をしたほうが良いような気がしますが、現実には無理だったのかも知れません。
 また、陸軍軍医学校では、水槽の中に薬品を入れて蚊を殺すことを提案していますが、その薬液について「入手困難」としています。その代わりになる方法の一例として、病院で使われた消毒剤の再利用などを挙げていますが、これも、その当時では現実的な方法とは思えません。
 このように、デング熱を流行させる社会的基盤となっているのが、防火用水槽、防空用水そうであることが分かっているにもかかわらず、戦争をしているため、適切な対応策がない。まさに、デング熱の流行は人災である、という状況になっているわけです。

  東京での出来事について
 その昭和17年において、東京ではデング熱の流行はありませんでしたが、東京でデング熱を発病した人がいます。この患者については、東京慈恵会医科大学衛生学教室の花岡信夫という人が『日本医学及健康保険』という雑誌の昭和17年10月31日号で報告しています。これがその報告のOHPですが、そのデング熱の患者は海軍の軍医でして、その年の9月13日に飛行機で東京に戻り、2日後の9月15日にはもう、デング熱の初期の症状が出始めたため、翌日の9月16日に海軍軍医学校の病院に入院しています。この東京での患者が海軍の軍医であったため、非常に早い対応がなされたわけですが、もし、それが軍医ではなく一般の人であったら、発見も遅れて、東京でもデング熱が散発的に発生した可能性があります。
 また、この海軍の軍医の場合、南方からの足取りは、どこに寄ってどうしたというのがはっきりしていて、どこで蚊に刺されてデング熱に感染したということもはっきりとわかっているようで、その日程表のようなものが出ているわけですが、具体的なことは軍事機密という形になって、その報告ではいわゆる伏せ字になっています。こんな所にも、戦争の影響が出ております。このため、どの地域でデング熱にかかりやすいのかという情報も、専門家の間にも伝えられない状況になっています。
 なお、この報告の最後に「将来、南方との交通が航空機により頻繁となるに従って、斯かる例が続発することは当然と覚悟せねばならぬ」としています。

  昭和17年でのその他の地域での流行
 また、資料は少ないのですが、昭和17年においては、沖縄で8月中旬から11月上旬にデング熱の大流行があった、と、沖縄県立沖縄病院長の米田正治という人が、昭和18年の「日本医学」とういう雑誌で、報告しています。また、その報告では、昭和18年8月の時点で、また、沖縄でデング熱の患者が出ている、と述べています。

  マスコミはデング熱をどう伝えたか
 昭和17年において日本でデング熱の患者が最初に出たのは7月である、とされています。当時の論文や新聞を見る限り、長崎での最初の患者が出たのが7月11日、大阪が7月13日、ということになっています。いずれにしても、その7月の半ばという時期は、そろそろ梅雨が明ける時期でして、ちょうど蚊が発生し始める時期と一致します。
 ただし、デング熱の患者が発生したということが新聞で報道されるようになるのは、もっと後、9月になってからです。全国紙レベルで見ると、このOHPがそうですが、長崎でのデング熱の流行が最初に報道されたのは、『朝日新聞』の昭和17年9月8日付けで、記事の本文は9行というかなり小さな記事でして、見出しは「長崎のデング熱 国民学校休校す」となっています。
 その9月8日の次が4日後の9月12日でして、それが、このOHPですが、ここでは「デング熱防疫布陣」という見出しで、長崎のデング熱の続報と、大阪でも患者が発生していることが報じられています。また、それとは別に「神戸にも多数発生」という見出しで、小さな記事があります。
 また、同じ9月12日付けの新聞の別の面には、「デング熱にメス 伝研石井助教授長崎へ」という記事があります。これは、伝染病研究所がデング熱の調査に動き出したという記事です。当時、厚生省は1人の係官を長崎に派遣していますが、今度は国の伝染病研究所の助教授が長崎に調査に行くわけで、この段階で国がデング熱対策に本格的に動き出した、ということになります。
また、同じ9月12日の『朝日新聞』の別の紙面、家庭欄ですが、「デング熱解剖」という題で、デング熱とはどういう病気かという説明、その治療法や予防法について説明しています。
 この中で、厚生省の予防課長で医学博士である南崎雄七という人が、デング熱について、「いわば風邪のようなもので、決して、そう恐ろしいものでなく、蚊がいなくなれば自然消滅すると思われるから、一般もそう不安がる必要はない」と、コメントを出しています。また、新聞の見出しには「蚊に刺されぬよう」と出ていますが、そのような精神論では、ほとんど対策にはなっていません。
 それから3日後の9月15日の『朝日新聞』では、厚生省でデング熱について「防疫協議会」が行われたことが、報じられています。この記事の見出しは「用水を取換えよ 厚生省のデング熱対策」というものです。ここで出された対策というのは、その見出しにあるように、▽蚊の発生を防止するため、防空用水を一週間置きに必ず取り換える、▽水溜まりや溝を常に清潔にする、▽患者が出た場合、発病5日以内は昼夜の別なく患者に蚊帳を吊り、蚊の襲来を防ぐこと、といったものです。
 ここでも真っ先に挙げられているのが防空用水あるいは防火用水と呼ばれるものですが、これは要するに空襲による火災を避けるためのものでして、いわば大東亜戦争など戦争の産物として、蚊が発生する社会的な構造があった、ということになります。
 また、その「防疫協議会」では、特に一般に過度の恐怖感を与えぬため、デング熱は「死亡がほとんどないこと、秋冷とともに蚊が死滅しデング熱もやがて解消するだろうとの諸点を強調。各方面に指令することになった」としています。
 このあたりにも、一種の情報操作というべき物がうかがえます。確かに寒くなりますと、蚊がいなくなり、デング熱は発生しなくなるでしょうが、戦争をしている限り、防空用水、防火用水槽はそのままあるわけでして、デング熱が流行する社会的基盤というのはほとんどそのまま残って、続いているわけです。言ってみれば、根本的なデング熱対策を立てていないのと同じでして、後で、あらためて述べますが、翌年、昭和18年にもデング熱が日本で流行することになります。
 ここで、もう一度、新聞の報道に戻ります。昭和17年の9月の時点で、大阪でもデング熱が流行していたわけですが、9月20日付けの大阪の『毎日新聞』が「大阪のデング熱伝染系統判る」という見出の記事を載せています。その記事によりますと、大阪府衛生課の調査で、「大阪で最初に発生したのは患者の最も多い東成区中浜町で7月13日、南方方面から帰ってきた某が発熱、それが両隣の家人に伝染し、いつのまにか市内に広がって行ったもの」ということが判った、としています。
 また、もう1つ興味深いこととして、長崎の患者と大阪の患者で症状を比較した記事があります。それによりますと、「患者60名について調べたところ、大阪の症状は長崎と違って、関節痛が激しいものが多いこと」としています。その関節痛以外の症状、たとえば頭痛、腰痛、筋肉痛、食欲減退、鼻の出血などは大体変わりがない、としています。
 その記事では、大阪での流行は東成区中浜町の南方帰りの人から始まった、ということになっていますが、これについては、その後、学会レベルで検討が加えられていないので、大阪でのデング熱の感染経路は本当にそのようなものだったのか、断定はできないと思います。だだ、症状として関節痛が激しい例が多いことから、長崎とはデング熱のウイルスのタイプが少し違う可能性があります。このことは、長崎から大阪にデング熱が飛び火したのではない、ということも示唆しています。
 昭和17年のデング熱の流行についての全国紙レベルでの新聞報道は、その9月20日付けの『毎日新聞』で終わっています。
 なお、デング熱の流行に関する記事ではなく、デング熱の研究に関する記事としては、昭和17年11月26日付けの『朝日新聞』で「デング熱 見事に人工培養 京大が内地で初の成功」という見出しの記事が出ています。この京大というのは、京都帝国大学微生物学教室の木村廉教授のグループのことです。このグループは後に、デング熱の人体実験をいろいろ行うなど、問題あるグループでして、このことについては、また後で、あらためてご説明します。
 そのように、デング熱が全国紙レベルで報道された回数は、非常に少ないものです。記事としても、今の感覚で言えば、いわゆる「ベタ記事」程度のものが中心です。
 しかし、この昭和17年の9月の時点で、新聞の全国紙でも、紙面は朝夕刊合わせて6ページ程度です。新聞がデング熱についてあまり興味がなかったのも事実でしょうが、一方で、デング熱のことを書くスペースが物理的に少なかった、という側面もあります。それが昭和19年になりますと、物質不足がひどくなり、さらに新聞は薄くなりまして、夕刊がなくなりまして、朝刊だけで2~4ページくらいになっています。ちなみに、昭和18年の夏にもデング熱は流行したのですが、デング熱の流行についての記事はほとんど見られません。このような情報不足が、また、デング熱の流行を後押した、という側面があります。

  昭和18年での厚生省のデング熱対策について
 次に、厚生省のデング熱対策についてお話します。
昭和17年のデング熱の流行を踏まえて、厚生省がデング熱対策として動いたのは昭和18年5月8日、いよいよ蚊が発生しようかという季節になってからです。具体的には、次のような2つの通達(通牒)を出しました。その1つは、港で検疫をしている人たちに対するもので、「海港検疫に伴うデング熱予防に関する件」という通達です。もう一つは都道府県の衛生担当者に対するもので、「デング熱予防に関する件」という通達で、これは間接的には都道府県の医師会に対する通達にもなっています。
 その通達では、肝腎のデング熱の予防法について、蚊の発生を極力防止すること、蚊帳を使用するように指導すること、くらいしか述べていません。ちなみに、蚊取り線香のことは、何も触れられていません。
 また、その都道府県の衛生担当者に対する通達では、デング熱の患者が発生した場合の処置について、次のように述べています。
 ▽医師がデング熱と患者を診断した場合、市町村長に届け出る。また、その患者を病院あるいは自宅、その他適当な所で、発病後5日間、昼夜、蚊帳の中で静養するように指導する。
 ▽デング熱の患者が発生した所から半径300メートルの範囲内は、蚊の発生を極力予防する。また、その患者が静養しているかどうか、町内会長や隣組長などと協力しながら、衛生担当の役人が監視する。
 また、デング熱が流行しそうな地域の一般国民向けに、デング熱の予防のための簡単なパンフレットが作られたようですが、実際に、どの程度、配布されたのか、私は把握しておりません。ちなみに、その一般国民向けのパンフレットには、デング熱の予防法として、次のようなことが書かれていました。
 第1は、蚊を撲滅すること。
 第2は、デング熱の患者と蚊との絶縁を計ること。
 第3は、蚊に刺されないようにすること。
 その第1の蚊を撲滅することについては、防火用水槽での蚊を退治することについて、いろいろと書かれています。例えば「防火用水槽でメダカや金魚を飼育すること」あるいは「除虫菊の粉や石油・重油を投入すること」などが出ていますが、戦時中の昭和18年の夏の段階で、物資不足の時代ですから、そのようなこことをしている生活の余裕があったとは思えません。

  昭和18年でのデング熱の流行の状況について
 そのようにデング熱対策を立てましたが、昭和18年にもデング熱の患者は発生しました。昭和18年においても、デング熱はかなり流行したと推測されます。また、昭和19年にもデング熱は流行した、と語り継がれています。しかし、昭和18年あるいは19年になりますと、戦争による物資の不足などによりまして、新聞もますます薄くなり、医学の学会誌や専門誌も薄っぺらになってしまい、デング熱についての論文や報道が非常に少なくなります。結局、昭和18年でのデング熱の流行がきちんとした論文になったのは、戦後、昭和22年になってのことでした。神戸市立細菌検査所の木本俊齋という人が、昭和22年に出た『日本伝染病学会誌』の第22巻1~3合併号で「昭和18年度神戸市流行デング熱の概況並びにその動物実験について」という論文を発表しています。
 その論文では、昭和18年での神戸市でのデング熱の流行について、次のように報告しています。
 「昭和18年8月27日、灘区岩屋北町1丁目27において、神戸製鋼所工員デング熱と診断され、以来、北町、中町、灘南通、船寺通一帯に多発し、10月28日には422名なるも、推定に依れば約1000名近く発生しあるものと思惟(しい)さる。」
 その前年の昭和17年での兵庫県のデング熱の患者は公式には1357人と発表されていますから、昭和18年での神戸市の約1000人の患者というのは、前年に匹敵する数である、といえます。
 この昭和18年に神戸で流行したデング熱がどこから入って来たのかということについて、その論文では、不明としています。ただし、前年、つまり昭和17年にも神戸市でデング熱の流行があったことから、その論文では「昭和17年、神戸市には大流行あり。そのうち、灘区水道筋は直線距離にして2~3町なり。大流行の翌年には、なお、大小の流行ありし事実よりして、かかる発生も有り得、また、該地区は市の中心と異なり、所々に空き地あり、野菜畑あり、水溜めも多く、蚊の発生し得る条件多くして、ほとんど1年中、蚊のいることより、病毒の越年も考えられる」としています。
 また、この論文では、デング熱の患者の男女別、年代別の数字も出しています。昭和18年の流行の患者を、男女で分けると、女性の方が多くて、女性が6割を占めています。また、その中心は20代から40代の女性で、この年代の女性が多いことについて、論文では、炊事あるいは配給物を受けたりするなど蚊に刺される機会が多いため、と推測しています。このあたりにも、戦争というものの影響が見られます。
 それから、昭和17年にデング熱が大流行した長崎では、翌年、昭和18年はどうだったのか、ということですが、残念なことに、昭和18年の長崎に関する資料がほとんどありません。当時の新聞を見てましても、長崎で流行したという報道は見当たりません。しかし、デング熱が大流行した所では一般に、翌年にも大なり小なりの流行はある、と言われております。では、昭和18年に長崎で流行がまったくなかったのかと言えば、そうではありません。長崎医科大学の内科の筬島四郎(おさしま・しろう)という人たちのグループが、やはり昭和22年になって、『日本伝染病学会雑誌』で報告しております。それによりますと、長崎医科大学の看護婦寄宿舎に、昭和18年8月24日を初発として、多数、デング熱患者が発生した、と報告しております。たま、その看護婦の患者さんの一人は、デング熱から敗血症に移行し、死亡した、と報告されています。
 このように長崎市の看護婦の寄宿舎で多数の患者が発生しているわけですから、長崎市内の他のところでもデング熱は流行したのではないか、と私としては推測しています。今後もいろいろ調べまして、資料でも見つかった時は、機会がありましたら、またご報告したいと思います。
 なお、そのように、軍隊でもそうですが、集団生活している狭い範囲で、デング熱はよく流行します。これは、狭い範囲で蚊が飛びまわるため、と考えられます。
 また、昭和18年においては、先ほど少し触れましたように、沖縄でデング熱の流行がありました。
 また、昭和18年の夏、名古屋市で患者が一人出ています。これについては、名古屋市立城東病院の落合国太郎という人のグループが、昭和18年10月、名古屋医学会総会で報告しています。この名古屋の患者の場合、外国で感染し、名古屋の自宅に戻ってから、デング熱を発症しています。ただ、この患者がどこでデング熱に感染したかということについては、「デング熱の恒在地」つまり、デング熱が恒常的に存在する地域としているだけで、具体的にどこの外国で感染したかという肝心なことは、医学の専門家である医師に対しても、報告していません。このあたりにも戦争の影響みられます。
 その昭和18年以降、昭和19年はどうなのかということですが、この昭和19年の状況というのは、通常なら翌年、昭和20年にいろいろと報告されるわけですが、この昭和20年というのは終戦の年で、最も物資も不足していた時で、社会も混乱していましたので、資料としてはほとんど残っていないのが現状です。ただ、関係者の間で言い伝えられているのは、昭和19年もデング熱は流行した。つまり、デング熱が流行したのは昭和17年から昭和19年まで。流行した場所は、長崎を初めとしてこれまでご紹介してきたところの他、横浜でも流行した、といわれております。
 それで、いずれにしましても、デング熱は戦争とともに流行し、戦争が終わったら流行しなくなった、ということを、頭の隅に入れておいていただきたいと思います。

  デング熱を媒介する蚊が越冬するか、ということについて
 それで、そもそも、デング熱を媒介するヒトスジシマカが越冬するのか、という問題があります。これについては、海軍の軍医少佐である阿部功という人を中心としたグループが研究し、昭和18年3月の段階ですでに発表しています。その論文が、海軍の軍医の学会誌である『海軍軍医会雑誌』の昭和18年5月号に載っています。
このグループは、昭和17年12月から翌年の3月まで、神奈川県の横須賀地方で、ヒトスジシマカがどのような形態なら越冬するか、ということを観察したり、実験しています。それによりますと、横須賀地方では、卵の形でのみ越冬ができ、例えばボウフラや蛹(さなぎ)の形では越冬できない、としています。
 ただし、興味深いのは、そのヒトスジシマカの卵がよく見られる場所です。これは例えば、墓地の花立の中に堆積している土の中、墓石で水を入れる所に堆積している土の中、そのあたりで苔が生えている土の中などでは、100%、ヒトスジシマカの卵が発見された、といいます。墓地や墓石というのは、ある意味で、日本の文化に根ざしているものでして、そのような所に存在する蚊の卵を駆除するうまい方法は、なかなか、ありません。適切な薬品もありません。このため、その海軍の軍医は、ヒトスジシマカの対策として、「幼虫の孵化前、あるいは孵化直後において、墓地を徹底的に清掃し」と述べているくらいです。
 それから、そのヒトスジシマカの卵に感染性があるのか、つまりデング熱のウイルスをもった蚊の卵から孵化した蚊は、その病原性をもっているのか、ということですが、これについては、その論文の時点では、検討されていません。

  デング熱による死亡者はなかったのか?
 そのデング熱の流行に対して、厚生省側からは死者が出ることはほとんどないから心配要らないということが、一般国民向けのパンフレットなどで強調されました。しかし、実際には死者は出ています。その数少ない報告の1つが、長崎大学東亜風土病研究所の金子直という人によるものです。これは昭和18年4月17日付けの『日本医学及健康保険』という雑誌で、自ら、死亡例を紹介しています。ここでは次のように述べています。
 「多数の罹患者中には不幸な合併症で倒れたものもごく少数にはあった様だが、その一例を剖検する機会を得た。76歳男子。発病後21日目に死亡している。剖検では、漿膜下、殊に小骨盤腔、左季肋下、肋膜等の広汎にして高度の出血、膀胱粘膜の全域における出血性壊死性炎、腎盂、胃、腸等の粘膜出血、腎髄質部、心筋内の小出血など、全身が出血性素因に傾いていた。肝には鉄血色素の沈着著しく、小葉の中心は壊死に陥っている」
 これは、今で言うところの「デング出血熱」に近い病態ではないか、と思います。
 また、昭和18年には、長崎医科大学の看護婦さんが、デング熱から敗血症を起こし、死亡しています。
また、死亡ではないものの、いろいろな障害が発生しています。例えば、『日本伝染病学会雑誌』の昭和18年6月号で、兵庫県衛生課の大城俊彦という人が次のような報告をしています。「妊娠二ヶ月の婦人にして、デング熱に罹患し、月経が来潮し、流産したものもある」

  日本の近隣国でのデング熱流行について
 ここで、もう少し視野を広げまして、日本の近くの国を見てみますと、昭和14年ころから18年にかけて、中国でデング熱の流行が見られます。
 具体的に言いますと、昭和15年9月に、上海で、原因不明の熱病がありまして、これが「上海熱」と呼ばれていたのですが、後に、それはデング熱であったことが判りました。 昭和16年にも、上海でデング熱の流行がありますが、その上海の少し南になります杭州(こうしゅう)でも、この昭和16年に、デング熱が大流行します。その翌年、昭和17年になりますと、また、上海でデング熱が散発的に発生します。先ほどもご紹介しましたが、長崎での昭和17年のデング熱は、この上海のデング熱が入ってきた、正確に言いますと、上海で感染した人が船で長崎に来て、この人からデング熱が長崎で広がった、という見方もあります。続いて、昭和18年には、中国の湖北省の大都市である漢口(かんこう)でデング熱の流行がありました。
 このように、当時の東アジア全体にデング熱が流行りやすい、何らかの状況にあった可能性もあります。

  日本で行われたデング熱の“人体実験”について
 次は、デング熱の人体実験についてです。
デング熱が日本で流行を始めますと、日本の医学界もかなり慌てて、デング熱の研究を始めます。また、単に慌てたというだけでなく、名誉欲に駆られた先陣争いも行われています。その結果として、デング熱に関する人体実験が、いろいろと行われました。これについて、少し詳しくお話したいと思います。
 人体実験といいますと、あの石井四郎の率いる満州の731部隊を思い出される方が多いと思いますが、昭和17年~18年ころの日本でのデング熱の研究者の一部といいますか、かなりの部分は、731部隊の人脈に直結しています。そこのことを念頭に置いていただいたうえで、お話を聞いていただければと思います。
 そもそも、デング熱やマラリアのような感染症は、ある意味で、人体実験が安易に行われやすい病気である、といえます。つまり、病原体を体内に注射し、いつ発病して、どういう症状が出るか、見ていくわけで、ようするに原因と結果という因果関係がわかりやすいため、安易に人体実験が行われるわけです。
 それで、デング熱の人体実験の前に、ちょうど同じころに行われたマラリアについての人体接種実験について、最初にご紹介しておきます。デング熱もマラリアも蚊を媒介にして伝染するわけで、マラリアの研究というのは、当時のデング熱の研究に通じるものがあるわけです。また、日本では、デング熱よりもずっとマラリアの研究の方が多く行われていました。
このマラリアの人体実験をしたのは、陸軍軍医学校の軍陣防疫学教室の陸軍軍医少佐の伊熊健治という人です。この人は、昭和15年ころからマラリアについての研究を始めました。
 後でOHPでお見せしますが、当時、日本にもマラリアの一種が土着していました。実際、日本からマラリアが完全に消えたのは、昭和30年代になってからです。
 また、当時、支那大陸、つまり中国大陸にマラリアが蔓延していまして、その支那大陸のマラリアに軍医は注目せざるを得なかったわけです。言い換えますと、中国への侵略とマラリアの研究というのはセットになっているわけです。
 その伊熊健治という軍医は、当時の陸軍の軍医の学会誌である『軍医団雑誌』第356号、昭和18年1月発行号で、そのマラリアの人体接種実験についての論文を報告しております。
 その方法ですが、まず、千葉県佐倉町、今の佐倉市におきまして、アノフェレスという種類の蚊を捕獲しておきます。そして、支那でマラリアにかかって日本に戻ってきた将兵に対して、その蚊で血液を吸わせます。つまり、マラリアの病原体であるマラリア原虫を、日本の蚊に移すわけです。余談ですが、当時の技術でこのようなことをしていると、マラリアでもデング熱でもバイオハザードを起こす可能性はあったのではないか、と思います。
 さて、その次ですが、そうやってマラリア原虫を感染させた蚊を使って、別のヒトの血を吸わせます。まさに、ここの部分が、人体接種実験ということになるわけですが、問題なのは、誰に対してその蚊を使ったか、ということです。同じ軍医の仲間が実験台になったというのなら、まだわかるのですが、その論文には次のように書いてあります。
 「接種者の選定 感染アノフェレス蚊の接種者は、千葉県国府台陸軍病院入院患者にして精神分裂病、精神発育制止症、精神乖離症等にして、マラリアの経過を有せざる精神病患者なり」としています。もちろん、今でいうところのインフォームドコンセントがあったとは、とても考えられません。
 実際に人体接種実験の対象になったのは4人で、このうち2人がマラリアを発病し、2人は発病しませんでした。この実験成績から、軍医は次のように結論づけています。「出征中、戦地(支那)において罹患せる三日熱マラリアは、内地帰還後、内地におけるアノフェレス・シネンジスにより、容易に内地において伝播せしめ得ることを結論せんとす」
 また、この論文の最後に、この研究の協力をしてくれた人に対する謝辞が述べられていますが、その中の名前の筆頭に「陸軍軍医学校石井主幹殿」と出てきます。これには石井の下の名前が何なのか書かれていませんが、この時期の「石井主幹」と言いますと、あの731部隊の石井四郎と断定できると思います。ちなみに、石井四郎は、戦時中はずっと満州のほうに行っていたと思われがちですが、実際には、陸軍軍医学校と満州をいろいろ行き来していました。失脚に近いような形で陸軍軍医学校に戻っていた時期もあるようです。
なお、この国府台陸軍病院というのは、現在も形を変えて残っていまして、千葉県市川市の和洋女子大の近くに国立精神・神経センターと国立病院という形で残っています。
 では次に、デング熱の人体接種実験についてみておきます。その代表的なのが、東京帝国大学医学部細菌学教室の大場正道という人が昭和18年に行った実験です。これは、『衛生学伝染病学雑誌』の昭和18年11月・12月合併号に「デング熱病毒の人体接種実験について」という題で発表されています。これが、その論文のOHPです。
 この実験の方法ですが、前年、つまり昭和17年の長崎でのデング熱の流行において感染した人の血液を採取し、その血液を10倍に希釈したもの0.2mlを、他の人の腕に注射してみたり、鼻の穴の中にその血液を塗り付ける、といったものです。
 この東京帝国大学細菌学教室が行った人体実験の対象となった人は、「特志被実験者」と呼ばれています。今の言葉で言えば「ボランティア」というわけですが、実際には、その「特志被実験者」には、健康な人はあまりいません。
 まず、皮内接種をした人、つまり腕に血液を注射された人は3人でして、そのうちの1人は45歳で動脈硬化、もう1人は44歳で脊髄癆、つまり脊髄結核です。また、鼻腔内に血液を塗られたのは2人で、そのうちの1人は29歳の小児麻痺、もう一人は48歳の脊髄梅毒です。
 それで、先ほどの皮内接種によって典型的なデング熱を起こした人がいます。この人は先ほどの45歳の動脈硬化の人なんですが、今度はこの人の血液を採取しまして、それを別の人の目の中に入れる、という点眼試験が行われました。この対象になったのは2人で、うち1人は26歳の小児麻痺、もう一人は34歳の小児麻痺の人です。
 今度は、血液ではなく、先ほどの45歳で動脈硬化の人でデング熱を発病した人の脊髄液と唾液を採取しまして、それを接種するという実験をしています。血液のほか、脊髄液、唾液を接種しているのは、要するに、デング熱の病原体がどこに出てきているのか、調べているわけです。この実験の対象になったのは3人で、うち1人は52歳の「左偏たん」、64歳の脊髄癆、47歳の「左偏たん」です。この「左偏たん」などという病名は、今はまったく使われていませんが、文字の意味からしますと、脳卒中いわゆる「中風」で体の左側が麻痺を起こしている人、という意味だと思われます。
 その脊髄液の接種で発病した47歳の女性の唾液を取りまして、それを今度、別の4人に注射する、という実験が行われました。うち1人は70歳の右腰部挫傷、1人は53歳の脊髄癆、うち1人は65歳の動脈硬化症、うち1人は58歳の脳梅毒、です。
 これまでの人体実験は、いわば、デング熱が感染するかどうかということと、その病原体がどこにいるかを調べるものでした。今度はさらに、デング熱の予防法や、いちどデング熱にかかると免疫ができるかどうか、といったことについても人体実験を行っています。その予防法をというのは今回の実験でデング熱を発病し、熱が下がった状態、つまりデング熱が治ったと見られる状態で、その人の血清を採取します。この血清を、別の人に注射するわけです。実験をした医者の側としては、その血清の注射はあくまでもデング熱の予防のためという位置づけだったわけですが、何と、その血清の注射でデング熱を発病してしまいました。この実験は、まったく失敗だったわけです。ちなみに、この実験には、42歳の脊髄梅毒の人が対象になっています。
 かなり細かいお話になってしまいましたが、この人体実験の対象となった人に対して、いわゆるインフォームドコンセントが十分に行われたとは、とても思えません。また、当時のそのような人体実験と、現在の薬の臨床試験を単純には比較できないのですが、現在、薬の臨床試験をする場合、動物実験がすんだら、いきなり病人に対して実験をするのではなくて、まず、健康な人に対して行います。これで問題がなければ、初めて、病人に対して行うわけです。
 また、今ご紹介しましたデング熱の人体実験にしましても、梅毒など感染症に罹っている人が半分くらいいるわけでして、純粋に医学の理論的にみまても、このようなすでに感染症を起こしている人を別の感染症の実験の対象にしても、正確な実験データは得られないのではないか、と思われます。おかしな話です。見方を変えましたら、デング熱に対して、いかに慌てて実験をしたかということが伺えます。また、病気の人を実験の対象とする、あるいは脳梅毒など脳に障害のある人を実験の対象にする、というように、当時の日本の医学・医療の哲学というものが伺えます。
 また、今回のデング熱の実験のスタートとなった最初の血液の出所は、陸軍軍医学校です。先ほどのマラリアの人体接種実験にしてもそうですが、この種の感染症の実験では、陸軍軍医学校が大きな役割を果たしていたこともわかります。
 デング熱の人体実験について、もう1つ紹介しておきたいものがあります。これは、文部省の科学研究費の補助を得て、京都帝国大学医学部微生物学教室の木村廉(きむら・れん)教授らのグループが昭和18年に行った、一連の人体実験です。その結果を『日本医学及健康保険』という専門雑誌で報告しています。詳しい内容は省略させていただきますが、この京都大学のグループは、鶏卵内で培養したデング熱の病毒を人体に接種するという方法を取っています。問題はどこで人体実験をしたか、ということですが、その論文は『日本医学及健康保険』の昭和18年5月29日発行号に出ています。デング熱の病毒をアンプルに入れて、この後、論文のまま読みますと、「満州国の某地に送り、その何たるを知らざる人の手によって所謂盲目実験を行った。これは、デング熱の経験なき人体において寒地(1月23日実験)にて発病するや否やを知らんとしたものである」と、なっています。
 その「いわゆる盲目実験」というのは、現在行われている二重盲検試験、いわゆる「ダブルブラインド」とは、だいぶ違うようです。このように、インフォームド・コンセントもへったくれもない、むちゃくちゃな人体実験が行われていたわけです。また、それを恥ずかしくもなく、学会誌や医学専門誌に論文として書いていたわけです。
 また、これは私の推測ですが、その満州国で人体実験の対象になったのは、日本人ではない、と思います。
その後、この京都大学のグループは、先ほどの人体実験の補足のような形で、また、人体実験をしています。これも同じ『日本医学及健康保険』という雑誌で報告していますが、今度は人体実験をする場所を少し変えまして「中支某地に送付し、人体実験を行ったものである」と論文に書いています。
 この京都帝国大学は731部隊の石井四郎の母校で、論文の筆頭著者である木村廉(きむら・れん)教授は、まさに石井四郎の恩師に当たる人です。そして、石井四郎は、この木村廉教授の京都帝国大学・微生物学教室から、731部隊にいろいろと人材を集めました。
 したがいまして当時、京都帝国大学・微生物学教室と大陸の731部隊を含むいわゆる「石井機関」との間には、感染症の研究のネットワークのようなものがあった、と推測できます。今ご紹介した木村廉教授のグループの論文で、デング熱の人体実験をした場所について、1つは「満州国の某地に送り」とし、もう1つは「中支某地に送付し」としています。まさに、それぞれ731部隊のような、いわゆる「細菌線部隊」のあった地域でして、あえて推測するなら、「満州国の某地」というのが、関東軍防疫給水部、いわゆる731部隊のこと。また、「中支某地」というのが、南京の中支那派遣軍防疫給水部(栄1644部隊、さかえ・いちろくよんよん部隊)のことではないか、と考えられます。
 ちなみに、その人体実験をした京都帝国大学の木村廉教授は、明治26年生まれで、京都帝国大学でデング熱の人体実験をしていた頃は50歳です。戦後には、日本学術会議の医学関係の部会(第7部会)の幹事も務めています。昭和31年に京都大学名誉教授となり、翌年、昭和32年には名古屋市立大学の学長になっています。また、昭和34年には、ビタミンB1に関する共同研究で、学士院賞を受賞しています。そして、昭和58年に亡くなりました。
 もう1つ、デング熱に関して、陸軍軍医学校の緒方規雄という人のグループが「デング熱病毒をもっての発熱療法」について研究し、その論文を『日本医学及健康保険』という雑誌の昭和17年12月5日発行号で原著論文を発表しています。この発熱療法というのは、当時、世界的に試みられたことがある治療法ですが、実際に治療の対象となったのは、梅毒が進行して痴呆の状態になった、梅毒性精神病の人、進行麻痺あるいは麻痺性痴呆と呼ばれる人です。
 方法としては、マラリアでも比較的軽い方のマラリアである三日熱マラリアと呼ばれるマラリアを起こすマラリア原虫を注射し、発熱させます。この発熱によって治療しようというわけです。今現在は、この発熱療法というものは、ほとんど行われておりませんが、その昭和17年当時は、世界的にみても、ある程度、普及しているものでした。ただし、あくまでも、その当時の確立された発熱療法はマラリア原虫を使うものでして、デング熱の病原体を使ったのは、この日本の陸軍軍医学校のグループが始めではないかと思います。
 しかし、このデング熱による発熱療法の実験の対象になった人たちは梅毒で精神障害の状態になっている人ですから、いわゆるインフォームドコンセントがきちんと行われたとは思えません。ましてや、マラリア原虫ではなくデング熱病原体を使うわけですから、これは、人体実験的な要素が非常に強いものとなっています。
 また、デング熱の流行があって、すぐに、このような人体実験といいますか、発熱療法が行われているのも特徴です。軍医たちにとって、デング熱という病気が非情に魅力的に見えた、ということだと思います。

  外地での人体実験について
 デング熱の人体実験は、南方の戦地でも行われていました。昭和16年12月の大東亜戦争の開始と同時に、日本は南方に侵攻したわけですから、すでに、この時点で、南方に行った部隊には、デング熱に感染するという危険が待っていたわけです。その場所にもよりますが、かなりの兵士がデング熱にかかったところもあるようです。その1つが、タイからビルマに進んでいった、いくつかの部隊です。
 その1つの部隊の軍医で、陸軍軍医大尉という位の河野通俊という人は、そのビルマのラングーンにおいて、1942年4月、日本でデング熱がはやり始める3ヵ月ほど前ですが、ラングーンにおいてデング熱にかかった兵隊の回復期の血液を採取して、その血液を周辺の兵隊に注射し、デング熱の予防効果をみる、ということをしています。一見すると、兵士のためを思ってそのようなことをしているようですが、きわめて実験的性格の強いもので、やはりこれれは、一種の人体実験といってよい、と思います。兵士としては、その血液注射を拒否できる状態ではなかった、と思います。
 デング熱にかかって血液を取られた兵士が22名、その血液を注射された兵士が120名です。この結果については、その河野通俊という軍医が、昭和18年4月発行の『軍医団雑誌』に論文として発表しています。この論文では、そのように血液を注射することを「血液接種」つまり、ワクチンなどの予防接種の「接種」という表現をしているわけですが、それは、あくまでも実験段階なのですから、「接種」などという表現はすべきではない、と私は思っております。
 で、そのデング熱の患者の血液を注射した効果ですが、その論文の結語として書かれているそのままを読んでみます。「結語。デング熱回復期患者血液を接種することにより、完全なる感染防御は為し得ざるも、デング熱の諸症状を若干、軽減せしめ得たり」。
 そのようにデング熱の症状を若干軽減した、と書いていますが、実際の疫学的な検討方法というのは、このOHPにありますように、その血液注射をされたものが1割ほどいる部隊と、その部隊の近くにいて血液注射をしていない部隊で、デング熱の発生率や症状を比較するという、かなり荒っぽい比較対照試験です。
 その血液を注射するという方法ですが、このような治療法が、昭和の初期の日本の医学界では、いろいろと試みられていました。例えば、その昭和初期の『日本医事新報』という医師向けの医学専門雑誌を見てみますと、「自家血清療法」あるいは「健康血清注射療法」あるいは「人血注射療法」というものが、何度か紹介されています。その当時の難病、肺炎などの治りにくい感染症などの患者に対して、自分の血液や健康な人の血液を少し注射するという方法が、行われていたわけです。このデング熱の患者の血液を注射するということが行われたのも、その当時の日本の医学を少し反映している、とみることもできます。
 なお、その当時、ウイルスという概念はなかったのですが、濾過性病源体という言葉や概念はありました。つまりフィルターも通ってしまうような小さな病原体がいることはわかっていたわけで、安易に血液を注射すると、その濾過性病源体、つまりウイルスに感染する可能性があることは、当時でも、充分に推測されたわけです。それにもかかわらず、血液の注射がいろいろと行われました。それによりまして、おそらく、今で言いう所の肝炎ウイルスなどに感染した人も少なからずいたのではないか、と私は推測しています。
 また、そのように安易に血液を注射するというのは、医師がドクターが悪意で行っていたわけではありません。まさに、カギ括弧付きの「善意」、言い換えれば独善的な善意とでも言うべきもので、この「独善的善意」という体質は、今現在の日本の医師においても、顕著に見られるものです。

  デング熱を研究した学者グループのまとめ
 その人体実験も含め、日本で発生したデング熱に対しては、さまざまな学者グループが研究しています。それをまとめて読み上げますと、次のようになります。
 ▽伝染病研究所
 ▽陸軍の軍医、主として陸軍軍医学校
 ▽海軍の軍医
 ▽長崎医科大学および同大学の東亜風土病研究所
 ▽京都帝国大学医学部微生物学教室
 ▽九州帝国大学医学部第一内科
 ▽神戸市立細菌検査所(名古屋帝国大学医学部細菌学教室)の木本俊齋氏
 ▽九州帝国大学医学部細菌学教室の戸田忠雄教授ら のグループも、地元九州の長崎でデング熱が流行したということもあってか、デング熱の病原体に関する論文をいろいろ発表しています。その論文の1つに、「人体接種によるデング熱病原体の大きさ測定」というものがあります。この論文も、どのような人を対象にして人体接種実験をしたのか、明確にしていませんが、論文の最後のところに、同じ大学、つまり九州帝国大学の精神科の援助があった、としています。したがいまして、精神科に入院していた患者などが人体実験の対象になった可能性が十分あります。
 なお、この戸田教授は、戦後、「戸田細菌学」と呼ばれる教科書、あるいは細菌学の大系を作った人でして、細菌学の分野では非常に有名な人です。

  デング熱の相互防衛に関する国際条約について
 次に、ここで、デング熱対策について、もう少し広い見地、国際的な見地から見ておきたいと思います。
1934年、昭和9年の7月25日に、アテネで、「デング熱の相互防衛に関する国際条約」という条約の署名が行われています。このOHPは、今の国連ではなく、その前の国際連盟の資料からコピーしたものですが、その「デング熱に対する相互防衛に関する国際条約」の英語とフランス語のコピーです。この国際条約の趣旨は、デング熱の患者が出たら、それぞれの国に通告するなど、情報交換を密にするともに、検疫を強化しよう、というものです。
 この「デング熱に対する相互防衛に関する国際条約」には、アメリカ、フランス、イギリス、イタリアなどが、比較的早く批准をしたり、加入しています。このOHPは、昭和12年、1937年の段階で、その条約に加入あるいは批准した国をまとめた、外務省の資料です。デング熱が流行した昭和17年の時点では、ドイツも含めてヨーロッパの主な国、十数カ国が批准したり、加入していました。日本は、その「デング熱に対する相互防衛に関する国際条約」ができた昭和9年の時点以後も、この国際条約については一切、興味を示すことはありませんでした。国会でこの国際条約について議論されることもありませんでした。しかし、当時の同盟国であるドイツ、イタリアなどがその国際条約に加入していたわけですから、日本もその国際条約に入ってもよかったのかもしれません。
 ただし、昭和17年の段階では、その国際条約に入っている国が、まさに二つに分かれて世界大戦をしていたわけですから、「デング熱に対する相互防衛に関する国際条約」は十分に機能していませんでした。
 仮に、昭和17年という年が平和で、第二次世界大戦などが行われていないとしたら、この国際条約は当然、有効に働いて、しかも日本がそれに加入していたとしたら、デング熱についての情報も外国からいろいろと得られたのではないか、と思います。また、日本にデング熱が入って来たとしても、その流行は小規模で抑えられたのではないか、と思えます。この辺りにも、デング熱の流行と戦争との関係がみられます。
 なお、この「デング熱に対する相互防衛に関する国際条約」が戦後、どうなったのかということですが、外務省に聞いたり私が調べた限りでは、このデング熱の国際条約は、破棄はされていません。形式上はまだこの国際条約が生きている可能性があるわけですが、少なくとも、今現在におきましては、デング熱対策としてはこの国際条約が前面に出てくることはありません。

  戦時中の食糧増産により、除虫菊の栽培面積が大幅に減少した
 次に、ここからは、デング熱が流行した社会的な背景、といったものを検討して行きたいと思います。
まず、デング熱の予防ということですが、これは結局、蚊に刺されるのを予防する、ということになります。当時の実際的な予防法の1つが、蚊取り線香を使う、ということです。その蚊取り線香の原料となるのが除虫菊ですが、大東亜戦争が始まったころ、日本は世界最大の除虫菊の輸出国でした。当時、世界の除虫菊のおよそ4分の3は日本で作られたもの、でした。
 ちなみに、このOHPでグラフにしてみましたが、大東亜戦争を始める昭和16年での日本での除虫菊の生産量は、約295万貫(貫目)。キログラムに直すと、 11,062,500キログラムとなります。それが戦争遂行のために食料増産ということで、だんだんと除虫菊を栽培する畑の面積が減っていき、その分、除虫菊の生産量も減っていきます。すなわち、昭和17年には、前年と比べると、除虫菊の生産量は3分の2に減少し、約208万貫となります。翌年の昭和18年には除虫菊の生産量は更に半減し、約108万貫になりました。昭和19年には更に1割程度減少し、92万貫となっています。
 この除虫菊を使っての蚊取り線香は当然、南方などの外地でも使いますから、日本国内での使用は、昭和17年の段階でかなり減っていたのではないか、と思われます。
 実際、南方の戦場には、かなり蚊取り線香が日本国内から送られていたようです。また、南方で使う蚊取り線香は、いろいろと工夫や改良がなされたようです。例えば、蚊取り線香を太くし、その中を空洞にして、蚊取り線香が燃えやすくする、というような工夫です。また、携帯用の籠のようなものが作られたようで、こうして、蚊取り線香を腰に釣り下げて歩くこともできるようになったようです。
 しかし結局、戦争を遂行するために、つまり食料増産のため、除虫菊の畑が減って、蚊取り線香の生産も十分でなくなった。このような状態で、さらに、除虫菊で作った蚊取り線香を、南方の戦場に送って行く。その分、国内で使える蚊取り線香が減っていきます。このように、除虫菊、あるいは蚊取り線香と言う観点からも、昭和17年の段階におきまして、日本でデング熱が流行する素地ができているのがわかります。

  国会で唯一行われた、デング熱についての質問
 次に、国政レベルでのデング熱対策ということですが、これはまったくといっていいほどなされませんでした。
ここで、国会の状況を見てみますと、 日本でデング熱がはやった昭和17年当時、日本の国会議員に、除虫菊の「族議員」とでもいうべき人がいました。これは森川仙太という人でして、昭和17年から昭和21年まで衆議院議員を務めています。また、その時期に、日本除虫菊工業会の会長も務めていました。戦後は、蚊取り線香のメーカーであります「キング除虫菊工業」という会社の社長を務めています。また、この森川仙太という人は、昭和31年から41年まで、和歌山県の有田市の市長などを務めています。ちなみに、有吉佐和子の『有田川』という小説の、主人公の夫のモデルのなった人が、この森川仙太という人で、昭和56年になくなっています。
 この森川議員が、昭和19年1月31日の国会の「農林中央金庫法案委員会」におきまして、除虫菊の増産をしたいという観点から、政府や陸軍に対して、質問をしています。注目したいのは、その中でデング熱について少し触れられていることです。あの戦時中の国会で「デング熱」という言葉が出たのは、唯一、この質問だけではないか、と思います。ただし、この森川議員の質問したデング熱とは南方の戦地で見られるデング熱でして、長崎など日本国内で流行したデング熱ではありません。日本で流行したデング熱については、私の調べた限りでは、国会では取り上げられていません。
 それでは、その森川議員が昭和19年1月の国会で、南方の外地でのデング熱について、どのような質問をしたか、読み上げてみます。
 「南方第一線の将兵、なかんずくニューギニア、ソロモン方面において力戦、奮闘せられつつある部隊の衛生状態に関しては、もとより当局において深甚なる考慮を払われつつあることは信ずるも、同地方は熱帯特有の悪疫、殊にマラリア、デング熱等、猖獗(しょうけつ=勢いの盛んなこと)を極め、その結果、戦力にも多大の影響ありと聞くが、これが現状如何、なお、これら悪疫に対しては、罹患後においてはキニーネをもっとも必要とするも、その予防策としては、これらの病気が蚊の媒介に基因するに鑑み、蚊の駆除剤資源として除虫菊をもっとも必要なりと考える」
 この質問に対して、陸軍軍務課長が次のように答えています。「まったくお言葉のとおりである。この点については、敵米英軍も『土の上には寝るな、必ず木の上に寝よ』という命令を出している。我が方も作戦命令とまでは行っていないが、それに近い対策を以って、風土病その他の諸病予防には最大に注意を払っており、今後、いっそう、衛生設備を拡充していくつもりである。なお、除虫菊は蚊取り線香の原料として大切であるから、軍は農商省と連絡をとって、その増産に邁進いたします」
 このように軍は「除虫菊の増産に邁進します」と言っていたわけですが、結局、増産どころか減産を続ける状態で終戦を迎えることになります。
 また、アメリカ軍でも日本の兵士でもそうですが、大体、デング熱がみられる南方の戦地に行きますと、1年くらいの間に、1割くらいの兵士がデング熱にかかっています。デング熱は再感染することは少ないのですが、1割くらいの兵士がかかるというのは、大変な病気です。しかし、そのようなことも、国会では報告されていません。

  外国のメディアがみた戦地での風土病、デング熱
 先ほどの国会議員の質問に対して、陸軍の軍務課長が、南方でアメリカ軍がマラリアやデング熱に対して、つまり直接的には蚊に対して、どのような防御策を取っているかを少し紹介しています。実際には、どうだったのでしょうか。
 それについて、興味深い記事が、アメリカの『フォーチュン』という雑誌の1943年、つまり昭和18年の7月号に出ています。この記事は「フロントライン・メディスン」という題で、戦場の第一線の医学、というような意味の記事です。実は、さきほど森川議員が昭和19年1月31日に国会で南方のデング熱など伝染病に関して質問したこと、紹介しましたが、その森川議員の質問の中で、外国の雑誌の記事の引用が出てきます。それは、どうも、これからご紹介する、『フォーチュン』の記事のようです。この記事では、次のようなことが書かれています。
 「マラリアは、南西太平洋においてナンバーワンの敵であり、ナンバーワンの医学的問題である。(中略)バターンでは、部隊の85%がマラリアにかかった。また現在、南太平洋、南西太平洋においては、兵隊の50%がマラリアにかかっている、という報告がある」
 この記事は全部読みますと、非情に興味深いことが書かれているのですが、戦場の第一線の病気について、かなりきちんとした報告になっていることに、ここでは注目したいと思います。
 一方、日本のメディアはどうかといいますと、南方の戦場で現実にどのような病気が問題になっているかというようなことは、ほとんど、報道していません。さきほどの学会誌などをきちんと読んでいましたら、バンコクやラングーンなど南方の兵士の1割くらいがすぐにデング熱にかかっているのが分かるはずなのですが、そういう報道はありません。また、日本の新聞は、日本国内でのデング熱の流行さえ、十分に報道しませんでした。
 もちろん、それについては、デング熱が流行した昭和17年の時点で、紙などの物資がなくなっていて、新聞が薄っぺらなものになっていた、という背景もあります。デング熱がはやり始めた昭和17年の夏で、『朝日新聞』は朝刊が4ページ、夕刊が2ページという状態になっています。これが昭和19年にかけて、さらに新聞は薄くなって行きます。

  気象情報・天気予報が軍事機密となり、新聞に出なくなった
 次は、気象とデング熱の関係です。デング熱が流行った昭和17年は暑い夏だった、と言われています。しかし、一般の国民は、暑い夏なのか、何なのか、客観的に判断できない状態でした。
すなわち、昭和16年12月8日、あの真珠湾攻撃をして日米開戦となりましたが、この12月8日午前8時をもって、陸・海軍大臣が気象管制を実施します。これによりました、新聞やラジオから、天気予報というものが完全に消えてしまいました。また、いわゆる天気予報だけでなく、気温などの情報も発表されなくなりました。これは、ある意味で徹底していまして、台風が来ていても、その情報は一切、国民には提供されませんでした。
 この気象管制が解除されるのは、終戦から1週間後、昭和20年の8月22日です。この日の正午のNHKのラジオのニュースで、戦後、最初の天気予報が流れています。
 このように、気象の関する情報が一切、日本国民に知らされなかったことも、戦時中の昭和17年にデング熱が流行した背景としてある、と考えられます。

  物資がなく薄っぺらになった学会誌、医学情報誌
 そのように新聞が新聞が薄っぺらになる時代ですから、昭和17年以降、医学関係の学会誌や専門誌も、薄っぺらなものになります。昭和18年くらいまでは、何とかページ数は保っていたのですが、紙の質が非常に悪くなります。昭和19年になりますと、一般に、非常に薄くなります。そして、昭和20年になりなますと、国会図書館にもほとんど残っていません。形式上は発行されていたのかもしれませんが、物資不足のため、部数としては、ほとんど出ていなかったのかもしれません。
 そのように物資不足、学会誌を作るための紙が不足する状況の中で、陸軍や海軍の軍医の学会誌も含めて、たいていの学会誌では、論文は短くして投稿するように、という警告を出しています。また、長い論文を掲載を希望する場合は、別に、お金を払う、というルールも作っています。
 いずれにしましても、こうしてデング熱についてのキチンとした学術的な情報が流通しなくなっていきました。ここにも、昭和17年以降もデング熱が流行した背景があります。

  空襲・防火対策として町内各地に防火用水槽が設置され、蚊が発生
 デング熱が流行した具体的な背景として、私がもっとも注目しているのは、防空用水、あるいは防火用水と呼ばれるものです。すなわち、空襲の防火対策として町内のあちこちに防火用水槽が設置され、ここに蚊が発生した、ということです。例えば東京が初めて空襲を受けたのは、昭和17年4月18日です。空襲というと昭和19年~20年のことと思われがちですが、実際には、大東亜戦争を始めて半年もしないうちに東京は空襲を受けているわけです。ですから、この昭和17年の段階でも、防火用水槽あるいは防空用水槽と呼ばれるものは、非常に大事なものだったわけです。
 それで、そもそも、この防空用水槽というものがいつ頃から日本ででき始めた、あるいは増え始めたのか、ということですが、日本では、航空機の発達に合わせて、空襲を意識した防空演習というものが、比較的早くから行われています。最初の本格的な防空演習は、昭和3年7月5~7日まで、大阪市で行われたもの、とされています。これは灯火管制をするなど、かなり本格的な演習です。この後、防空演習が全国的に広がって行きます。
 その防空演習に法律的根拠を持たせたのが、陸軍、海軍、内務省が中心になって作りった防空法という法律です。この防空法は昭和12年4月に公布され、その1年後の昭和13年4月から施行される予定だったのですが、それを半年繰り上げて、昭和12年10月から施行されました。この背景には、その当時、世界の飛行機が非常に発展し、戦争においてはかなり活用されそうだ、という情勢になっていたわけです。また、この昭和12年10月という時期は、太平洋戦争を始める4年前に当たるわけですが、防空ということに日本が非常に焦っていたことが、うかがえます。
 その防空法の内容ですが、これは戦争を想定していまして、空襲による火災を防ぐため、市町村長などが防空計画を作ること、国民それぞれに防空の義務を持たせ、また、防空に必要な費用は国庫補助をする、といった内容になっています。また、特に、防空法が施行された初期のころは、一般家庭レベルでの防空・防火に力が入れられ、いわゆる隣組を作ったり、防火用水、防空用水の整備に力が入れられました。
 ただし、その防空法が国会を通る直前の国会での防空法案委員会の議事録を見ますと、その4~5回開かれた防空法案委員会の最後の会議になりますと、防空の話はそっちのけで、スパイ対策をどうするといったようなことが盛んに議論されるようになっています。その防空法の実態は、国民を管理するための法律である、ということもわかります。
 さて、もう一つ、防火用水槽、防空用水というものに法的根拠をもたせたものがあります。その防空法が施行されてから3年ほどたった昭和15年9月に、内務省訓令として、「部落会町内会等整備要領」という訓令が出ます。この訓令を根拠として、いわゆる隣組があちこちに作られることになります。この隣組の重要な役割が、防火・防空ということです。先ほどの防空法と隣組の相乗効果で、防火用水槽、防空用水というものが、さらにあちこちで設置されていった、と考えられます。
 その防火用水槽あるいは防空用水槽というものは、戦後生まれの僕らとしては今一つ、イメージが湧かないので、このOHPを見ていただきたいと思います。これは朝日新聞社から出版された『朝日歴史写真ライブラリー・戦争と庶民』という本からコピーさせていただきました。これは昭和15年10月の大阪市天王寺区の町並みですが、この手前の家の前、この自転車のあるところですが、このように、それぞれの家、1軒ごとに、ずらっと防空用水が並んでいます。コピーなので見にくくて恐縮ですが、桶あるいは樽の形をした防空用水です。
 今、大阪の街を歩いても、もちろん、そのような防火用水は見かけません。その分、当時は蚊が発生しやすい環境であった、と言えます。

  防火用水槽での蚊の発生状況について
 その防空法が施行されてから5年ほどが経過した時点で、東京に最初の空襲がありました。その昭和17年当時、まさに長崎ほかでデング熱が流行した年での、東京での防火用水槽の設置状況についての調査があります。
 このOHPは、先ほどご紹介した文部省のグループが調査した成績からまとめたものですが、ほとんどすべての家に、防火用水槽が設置されていて、しかも、その97%には実際に水が溜められていた、といいます。また、その当時の防火用水槽の形ですが、東京で見ますと、樽の形が5割強、コンクリート槽が3割で、その他には、瓶(かめ)やドラム缶なども使われていました。水の量は、大体50リットル以上、100リットルくらいまで入るようになっています。
 そのデータについては、水道協会の『水道協会雑誌』昭和17年10月発行号で「防火用水槽と防蚊対策」という題で報告されています。ちなみに、この『水道協会雑誌』は、戦後、現在も続いて発行されています。
 このような題の論文が発表されるということは、デング熱の流行の前から、蚊が危ないということがそれなりに気づかれていたわけです。
 その論文では、都心部を中心に現在の23区内の1364の防火用水槽について調査していますが、それらの57%で蚊が発生しています。
 また、その論文によりますと、東京市内の防火用水槽に発生する蚊は、次の5種類になっています。
コガタアカイエカ。アカイエカ。ヒトスヂシマカ。トウガウヤブカ。シナハマダラカ。それらのうちでも、ヒトスヂシマカとトウガウヤブカは比較的多かったといいます。
 この論文では触れられていませんが、ヒトスヂシマカというのが、デング熱を媒介する蚊です。昭和17年の時点で、東京でも、すでに、デング熱を媒介する蚊が割合と多くいた、ということになります。
 また、シナハマダラカがいることについて、論文では「特筆すべきは、三日熱および四日熱マラリアの媒介蚊たるシナハマダラカを見ることで、今後大いに警戒する必要がある」としています。
 また、実際にその防火用水槽において、蚊に対して何らかの対策が行われていたかどうかということですが、その具体的な対策としては、次のようなことが考えられていたようです。
 第1は、水を換えること。第2は、魚などを放し飼いにすること。第3は、薬剤を入れること、です。しかし、実際には、そのような対策はあまり行なわれていません。
 水を取りかえることなどは一見、簡単なようですが、防火用水槽は、その水を抜くのが難しい構造でした。水を抜くための孔もあまり空いていませんし、その栓を抜くのに深い水の中に手を突っ込むようにしなければ行けない。それに、水を抜いたら抜いたで、また、水を入れなければいけないわけです。
 また、本来なら、薬剤を入れるのが簡単で効果的なわけです。当時の知識として、薬剤の一種として使うのにもっとも一般的だったのは石油なんですが、戦時中で燃料や油の足りない時代ですから、蚊の対策として石油などは使える情勢ではありません。その他、除虫菊、クレゾールなども有効なのですが、これも戦時中で物資の足りない時ですから、防火用水槽にそのようなものを放り込むには、余裕のない時代です。それで結局、防火用水槽はほとんど放置されたままになっていました。
 その蚊を殺す本来の薬剤の代用として、例えば、晒粉(さらしこ)つまりクロール石灰、灰、煙草、石鹸、有毒植物のアセビなどが実験されましたが、実際に効果があるのは晒粉(クロール石灰)くらいである、ということもわかりました。
 今、お話したのは昭和17年でも、まだ日本でデング熱が流行していない時期のデータです。その防火用水槽を調査した文部省のグループ、正確には、文部省資源科学研究所の野村健一という人たちのグループですが、この人たちが日本でのデング熱の流行を踏まえて、昭和18年の4月に『衛生学伝染病学雑誌』で、「防火用水槽と防蚊対策(第2報)」を発表しています。ここでも、防火用水槽にどのような薬剤を入れたら蚊の発生が防げるかという研究をしているわけですが、ここでは特に、農業用薬剤の利用について研究し、報告しています。
 この報告では、前年の、つまり昭和17年のデング熱の流行が、我田引水とはいえ、だいぶ意識されていて、こう述べています。「昨年のデング熱流行の如き突発時に際しては、良い薬剤の使用こそ第一に考慮されるべき」と述べています。
 しかし、今回の実験でも、防火用水槽の蚊の対策として使える決定的な薬剤がない、というのが結論でした。この中で、論文の著者たちは「現下、行われつつある水槽の防蚊技術のいかに幼稚で無智であるかを痛感する」と述べています。
 そのように、防火用水槽での蚊の発生を防ぐ決定的な方法はないということが、昭和17年10月、あるいは18年の4月の時点で、論文としてまとめられています。
 それにもかかわらず、先ほどご紹介したように、厚生省は昭和18年5月8日、都道府県の衛生担当者や一般国民向けの通達、パンフレットなどで、防火用水槽での蚊の発生を防ぐ方法として、灰を入れるなど、あまり役に立たない方法を挙げています。
 ただ、戦時中にその文部省の人たちの論文にあるように、メダカや金魚や身近な薬草などを用いて蚊を退治する研究がなされていたわけで、この研究成果がまったく忘れ去られているのも、残念なことです。今の時代でも、何らかの形で活かせることができるのではないか、というのが私の印象です。

  1944年に米軍が作成した、日本での“デング熱流行地図”について
 次は、アメリカ側からみた日本のデング熱や伝染病についてです。
1944年、昭和19年当時で見ると、日本の一般国民と比べて、アメリカの陸軍のほうが、日本でのデング熱の流行について、はるかによく把握していたようです。
 これからお見せする資料は、太平洋戦争の末期、1945年2月にアメリカの陸軍が作成したものです。アメリカの陸軍が1944年、昭和19年までの情報をもとに、日本でのデング熱などの感染症の流行の状況について資料をまとめたり、地図を作っています。
 この資料や地図を作った陸軍の部門を正確に言いますと「アーミー・サービス・フォーシーズ」というところでして、この「アーミー・サービス・フォーシーズ」は日本では「陸軍補給隊」と訳されるようです。このように「陸軍補給隊」というと、何か、単なる小さな移動する部隊みたいなイメージが与えられてしまいますが、実際、この「アーミー・サービス・フォーシーズ」は、いわゆるロジスティクス、兵站部門を担当する重要な部門でして、かなり頭脳的な要素のある部門でした。なお、アメリカ軍は、太平洋戦争の終わった1947年に再編成が行われまして、現在、「アーミー・サービス・フォーシーズ」は当時の組織の形では残っていません。
 このような資料を物資の補給部門、兵站部門の「アーミー・サービス・フォーシーズ」が作っていたということは、当然、日本本土への上陸、あるいは占領ということを念頭においていたと考えられます。
 これからOHPでお見せするのは“CIVIL AFFAIRS HANDBOOK”という大きな資料でして、その中の1つに、“Public Health and Sanitation in Japan”という項目、つまり日本における公衆衛生と衛生施設について述べているところがあります。
 この中では、日本で一般的に見られる病気について、その歴史や現状が述べられています。最初に出てくるのは、結核です。次が癌(キャンサー)。次がレイビーズ(狂犬病)。次が「メンタル・ディソーダーズ」(精神障害)。
 そして最後が「アザー・ディジージィズ」、つまり、その他の病気ということで、この中にデング熱のほか、いくつかの病気が出てきます。ここでは単にアルファベット順に挙げられていまして、その順番に重要であるというわけではありません。それを日本語に直して読み上げてみますと、①アクチノミセス症(放線菌症)、②炭疽(炭そ病、アンツラクス)、③Beri-beri(脚気、ベレベレ)、④デング・フィーバー(デング熱)、⑤ダーマトロジカル・コンディション(皮膚病など皮膚の状態)、⑥エピデミック・エンセファリティズ(流行性脳炎)、⑦フィラリア症、⑧インフルエンザ、⑨カラ・アザール(これはハエが媒介する伝染病で、従来、日本ではまれなものですが、戦時中、大陸に進出してから、日本の軍医も非常に注目していた伝染病ですが、結果として、国内でわずかに見られた程度で、流行はしませんでした)、⑩ハンセン病(レプロシィ、癩病)、⑪レプトスピラ症、⑫マラリア、⑬パパタシまたはスナバエによる熱(リーシュマニア症)、⑬肺炎(ニューモニエ)、⑭回帰熱(レラプシング・フィーバー)、⑮住血吸虫症(スキストソミアシス)、⑯破傷風(テタヌス)、⑰その他、虫による感染症、となっています。
 今ご紹介しました病気は、アメリカ軍が「アザー・ディジージズ」として取り上げているものですが、そのほとんど、脚気以外はすべて、感染症、伝染病の範疇に入るものです。戦時中、非常に感染症、伝染病が日本に蔓延していたことが、このアメリカ軍の資料からもよくわかります。
 今まで紹介した日本での感染症、伝染病について、特にアメリカ陸軍が興味を持っているいくつかのものについては、その流行状況を示す地図を作っています。
 では、そのアメリカ陸軍の作成した日本でのデング熱の流行の状況についての地図をOHPでお見せします。ちょっと見にくいのですが、線で塗りつぶしている所がプレヴァレント、つまり、流行している地域です。九州全域、中部地方から近畿地方にかけて、このあたりの流行については、ある程度、正確に把握しているようです。ただし、四国での流行が高知県になっていますが、これは隣の徳島県の間違いかもしれません。
 また、福島県と新潟県、青森県で実際に患者が発生したのかどうか、今の所、私はよく分かりません。きちんとした記録はありません。ただし、昭和18年当時の厚生省の役人の発言として「東北地方にデング熱の患者が出たという医師の報告があったが、これは医師がデング熱に対して熱心なあまりの間違いだった」という非公式な発言があります。その東北での現地の情報を、早くからアメリカ陸軍が把握していた可能性もあります。
 また、近隣諸国に目をむけますと、台湾が全域、流行している地域として塗りつぶされています。これはなかなか正確に把握しています。また、朝鮮半島の南部がデング熱の流行地域とされています。これについては、実際どうだったのか、私はよく分かりませんが、日本の九州がデング熱の汚染地域である以上、人の行き来などから考えて、朝鮮半島の南部が汚染地域とみなしても、おかしくはない、と思います。
 ちなみに、この日本でのデング熱について、アメリカ陸軍の「アーミー・サービス・フォーシーズ」は、およそ次のように解説しています。このOHPがそうですが、「デング熱は、やぶ蚊属のセスジヤブカなどによって運ばれてくる病気である。これは、日本中で発生しているが、最も流行しているのは沿岸の地域である。この病気で死亡することはまれだが、しばしば大流行し、軍隊における病気の原因ともなる」といったようなことが書かれています。
 また、そのアメリカ軍の資料では、日本の伝染病に関して「モスキート」つまり蚊ついて説明している項目があります。ここでは「マラリア、フィラリア、デング熱は、日本で見られる、蚊によって運ばれる病気である」したうえで、それぞれの病気について説明しています。デング熱については、先ほどと少しダブりますが、「デング熱は、やぶ蚊属のネッタイシマ蚊やセスジヤブ蚊などによって運ばれる。そのネッタイシマ蚊は、また、黄熱病(おうねつびょう)を運ぶが。日本においても、そのヤブ蚊属の蚊は見られるが、黄熱病(おうねつびょう)はこれまで発見されていない」
 このように、アメリカ軍は、昭和19年の時点で、日本がかなり感染症や伝染病で汚染されている、というのを掴んでいました。一方、その時期、日本ではこのようなデング熱の流行状況を日本全体で捉えた地図は、まったく作られていません。そもそも、当時の日本での感染症の全体的な状況についてまとめた文献も、私は見たことがありません。その意味でも、僕は、このアメリカ軍の資料や地図に注目しています。
 それで、せっかくの機会ですので、アメリカ軍が日本でのマラリアの流行状況について作成した地図も、OHPでお目にかけます。
 ちょっと見にくい地図ですが、四国の高知県、近畿地方から中部、北関東、東北南部、青森県などがマラリアの汚染地域とされています。また、日本で見られるマラリアについて、次のように説明しています。「日本本土で見られるのは、三日熱と呼ばれるタイプのマラリアである。熱帯熱マラリア原虫は、沖縄県で見つかっている。四日熱タイプの患者は、沖縄県の八重山群島で出ているだけである。1937年における日本でのマラリアによる死者は76人で、うち45人は沖縄県である。(中略)日本本土のマラリアは、実際、あらゆる地域で起こっているが、それが最もよく見られるのは、日陰になりがちな低地・平原の地域、例えば京都、新潟、群馬、沖縄、栃木、三重、愛知、静岡、滋賀、岐阜、青森、福井などである」
 今の常識からは、当時でも日本でそんなマラリアがはびこっていたというのは信じられないかもしれませんが、それは事実です。実際、マラリアは、日本では昭和30年代まで見られていました。
 このように、アメリカ陸軍は、日本がかなり伝染病で汚染された地域と見ていたようで、実際、それはそのとおりなんですが、このような認識があったことを背景として、GHQなどによる占領政策が進められます。それについて、次に紹介させていただきます。

  戦後、GHQがとったデングや伝染病対策について
 アメリカなど連合国が日本を占領して、GHQの指示もあって、日本でDDTが徹底的に使われたわけですが、それは、先ほどお見せしました、アメリカ陸軍が作った地図のように、日本がかなり伝染病で汚染されている見られていたという背景がある、と考えられます。
それで、GHQは、日本で伝染病対策にかなり力を注ぎました。GHQによる日本の統治が始まってすぐ、昭和20年9月22日に、GHQは、公衆衛生対策に関する覚え書きを発表しています。また当時、GHQが最も注意を払った伝染病は、日本脳炎、チフス、マラリアなどでした。GHQによる統治が始まった昭和20年8月の時点では、もう、デング熱はあまり流行していなかったと思われますが、GHQはデング熱も視野に入れた対策を打ち出しています。
 その対策としてもっとも私が注目しているのは、GHQの下部機関あるいは地方組織という位置づけになっている、地方軍政部と呼ばれる組織です。東京のお堀端の第一生命ビルに入っているGHQの本部といいますか最高司令部とは別に、東京を実際に統治したのが、第32軍政部です。正確には、この第32軍政部は、東京だけでなく山梨県も担当していました。
 この第32軍政部は、昭和22年、蚊が発生する夏を目前にした5月22日、東京都に対して、蚊が媒介するデング熱などの流行を予防するため、次のような指示を出しています。防火用に溜めている桶の水をなくして、土を入れるか、伏せておく。また、墓地の花立てや線香立ての穴も、土砂で埋める。つまり、墓地の線香立てなどに水が溜まらないようにして、蚊が発生するのを防せごう、というわけです。
 それまで日本の厚生省や医学関係者がデング熱の流行を避ける方法について、いくつかのアイデアは出していますし、墓地の問題の指摘もあったのですが、墓地の花立てや線香立てについてここまで徹底した対策を言及した日本人はいませんでした。その意味でも、この第32軍政部の指示に私は注目しています。
 また、GHQが編集した『日本占領GHQ正史』という大全集がありますが、これで公衆衛生関係を述べている第22巻で、“Insect and Rodent(ロウダント)”という項目、つまり昆虫とネズミなどげっ歯類の対策について述べている項目がありまして、この中でも、デング熱について触れられています。

  昭和17年に長崎医科大学で東亜風土病研究所が設立されたのと、長崎市でデング熱が大流行したこと、また長崎と京阪神で同時に患者の発生。それらは偶然だったのか?
 さて、デング熱についてのまとめです。
 最初に、私がデング熱に興味を持ったきっかけとして、長崎で昭和17年に流行したデング熱は、実はバイオハザードではなかったのか、と申し上げました。つまり、長崎医科大学の東亜風土病研究所からデングウイルスが漏れたのではないか、というわけです。
 そこで、その東亜風土病研究所の設立目的についてご紹介しますと、それは次のようなものです。
 「日華事変が拡大するにしたがって、大陸との交通もますます頻繁となってきたので、大陸からの悪疫の内地への侵入を防止するとともに、各種風土病および伝染病の学理的・臨床的研究に一新生面を開拓しようという意図のもとに、大陸医学研究所の設立を企画し」というものです。
 この研究所の人員は、事務関係者も含めて20人でスタートしています。研究所という形をとっていますが、独立した建物があるわけではなく、長崎医科大学の空いた教室を使っていた、というのが実情です。また、戦時中は、主に、中国大陸での野外調査に重点を置いた、といいます。当時の論文を見る限り、力を入れていたのは、チフスやパラチフス、コレラやサルモネラ菌などです。マラリアやデング熱など蚊が媒介する伝染病については、あまり、力を入れていませんでした。
 しかし、当然といいますか、長崎でデング熱が流行した時には、この東亜風土病研究所でも、そのデング熱について少し調査・研究をしたようです。論文という形で公式に記録されているのは、白石天外という人が書いた「デング熱における血清学的所見」という論文だけです。また、国内のデング熱よりも、むしろ大陸のデング熱に興味を持っていたようで、青木義勇という人が、昭和18年に中国の漢口で流行したデング熱について論文を書いています。
 ですから、バイオハザード、つまり、東亜風土病研究所からのデング熱をウイルスを持っている蚊が外に飛び出して行って、それによって長崎でデング熱が流行した、ということはちょっと考えられません。しかし、その東亜風土病研究所が設立されるのとほぼ同時に長崎でデング熱が流行したというのは、決して偶然ではなく、ある意味で、必然的だったといえます。つまり、それぞれが大東亜戦争の産物だった、ということです。
 ただ、そのバイオハザード説にこだわるわけではないのですが、その当時、日本で行われたマラリアやデング熱の人体接種の実験において、安全性を守る方法は、非常に荒っぽいものでして、実際にバイオハザードが起こってもおかしくはない、という印象を持っています。
 なお、この東亜風土病研究所は、最後まで戦争の影が付きまといました。あの昭和20年8月9日、原子爆弾の直撃を受けます。まさにそれは直撃でして、戦争に駆り出されていた研究所員以外は、ほとんど即死しました。当時、東亜風土病研究所の所長を兼ねていた長崎医科大学の学長も、この原子爆弾を直撃を受けまして、即死ではありませんが2週間ほどして亡くなりました。ただ、それで東亜風土病研究所という組織がなくなったわけではなく、その後、紆余曲折はありましたが、その東亜風土病研究所は現在、長崎大学の熱帯医学研究所という形で生まれ変わり、マラリアなど熱帯医学の日本での中心的な研究施設になっています。
 それから、距離的にも離れた長崎と神戸・大阪でほぼ同時期に患者が出たこととも偶然なのか、という疑問ですが、僕は最初にデング熱の日本での流行を知った時、これはその当時、大東亜戦争に反対するゲリラあるいはアメリカのスパイがデング熱のウイルスを持った蚊を日本中に撒き散らしたのではないか、というミステリー小説もどきのことを直感的に考えたのですが、まあ、いくらなんでも、そんなことはないようです。それで、長崎、神戸、大阪というのはそれぞれ、港町でして、南方や大陸から船が入ってくることろです。それに、昭和17年の夏というのは、日本がもっとも南方で戦線を広げていた時期ですから、やはり、このような時には、外国との行き来が盛んな町にデング熱が入ってくる確率は、最も高くなる、ということだと思います。
 感染症というのは、ある意味で、確率論の世界ですから、感染症を考えるうえでは、社会学的な観点が重要なのではないか、と思います。

  現代のデング熱について
 最後に、現在、デング熱がどのようになっているか、このOHPにまとめてみました。
デング熱は、特に最近、その流行がぶり返している、という印象を受けます。一昨年から昨年にかけましては、サウジアラビアなど中東からインドにかけてと、アメリカ大陸の中米と南米でかなり流行しました。
また最近、このOHPにありますが、リイマージング・インフェクシャス・ディジージズと呼ばれる一群の感染症が注目されています。このリイマージング・インフェクシャス・ディジージズという言葉は、1995年にアメリカの公式な文書で使われ始めた言葉でして、日本では「再興感染症」あるいは「再流行感染症」などと訳されています。
これは文字どおり、昔からある有名な感染症でして、その制圧ができず、最近また流行がぶり返して非常に流行したり、流行する兆しを見せている感染症のことです。その再興感染症と呼ばれるものの1つに、デング熱やマラリアが挙げられています。
 特に、デング熱は薬物やワクチンを使って予防をしたり治療をしたりする方法もないので、その再興感染症と呼ばれるものの中でも、日本人にとっては注意しなければいけない感染症の一つです。

  最後のまとめ
 最後のまとめです。
 今までお話していた昭和17~18年に日本で流行したデング熱には、ある意味で、感染症に関わるすべての問題点が出そろっている、と言えます。これから日本に突然、新しい感染症が入ってきたり、珍しい感染症が流行し始めた場合、その昔のデング熱の流行は、1つのモデルケースになるものです。そのデング熱から、どのような教訓を得るか、また、それを踏まえて、どのような視点で現代の感染症を見ていけばよいのか、ということについて、このOHPにまとめてみました。
 第1は、現代の社会のシステムに、感染症をはやらせる要因、メカニズムはないのか、ということです。デング熱の流行は、まさに戦争の産物ともいえる防火用水槽、防空用水が、デング熱をはやらせる基盤となりました。現代の感染症に対しても、その「防火用水」にあたるものがないか、考えてみる必要がある、ということです。
 第2は、私たち自身の「心」の中に、感染症を流行させる要素はないか、ということです。少し文学的な表現になりますが、私たちの心の中にある「防火用水槽」の水で、何かを消そうとしているのではないか、ということです。わざと、物事を見ないようにしている、ということですが、現代の感染症で、それが極端に現れているのが、エイズです。薬害エイズだけに目が行ってしまい、例えば、同性愛によってエイズになった人については、まったく興味がないというより、見ようとしない状況です。
 ここで、差別の問題が出てくるわけですが、デング熱でも精神病や梅毒などのの患者に対する差別を背景に、人体実験が行われました。もう1つ、差別という難しい問題に向かい合いたくないため、見て見ぬふりをする、ということが、現代の感染症でもみられます。例えばO157などでもそうです。
 第3は、国・厚生省は適切な指導、情報公開をしているか、ということです。
 第4は、医師は専門家としての役割を果たしているか、とういことです。これは、名誉を得るため、人体実験に走る、という形で出ることがあります。このようなパターンは、薬害エイズでもみられます。もう1つは、ワクチンの接種率が全般的に低下してきている、ということです。感染症の予防のためには、ワクチンというのは非常に大事ですが、一方で、インフルエンザのワクチンは効かないといったことが、市民団体などを中心に、指摘されています。また、前橋市の医師会なども、学童に対するインフルエンザワクチンの集団接種については、批判的でした。その後、法改正があり、インフルエンザワクチンは、学校で強制的に集団接種をするということは、行われなくなりました。基本的に親の判断によって医療機関で予防接種を行なうというということになったわけですが、これによって、インフルエンザの接種率が非常に低下していますが、これには、医師が専門家としての知識を一般の人たちに提供していない、という側面があります。つまり、医師の間では、ワクチンの副作用が出たら面倒だし、ワクチン接種はあまり儲からないので、もう良いや、という空気があります。今年のインフルエンザの流行では、お年寄りが多くなくなっていますが、これなども、インフルエンザワクチンの接種率が低下していることの余波である、と見ることができます。つまりワクチン全般について、副反応いわゆる副作用が出そうな人に対して予防接種を受けさせないことも専門家として非常に大切なのですが、科学的データを踏まえ、インフルエンザワクチンも含めて、医師として必要な人に対しては受けてもらうようきちんとアドバイスすることも大切だ、と思われます。
 第5は、差別に基づく人体実験のようなことが行われていないか、ということです。
 第6は、マスコミは適切に情報を流しているか、とうことです。例えば、エイズの問題で言えば、薬害エイズだけに目が行き、川田竜平君親子を「英雄」にして、それで終わり、という状況です。マスコミも、同性愛でエイズに感染した人については、ほとんど興味を示していません。
 第7は、外国から日本の感染症を見た場合、どのように見えるのか、ということです。先ほどご紹介しましたが、アメリカ陸軍は、日本でのデング熱やその他の感染症の流行の状況について、地図やレポートを作っていました。実際、戦時中の日本での感染症の状況を知るには、日本人として情けない話ですが、そのアメリカ陸軍の地図やレポートは、大変役に立ちます。
 それで、例えば現代のO157の問題を考えるうえでも、アメリカでの出来事を知ることは、非常に役立ちます。アメリカでは、1993年1月に、O157による感染と見られる患者が出たため、当局は、すぐに疫学的調査を始めます。この方法は、その患者16人と、健康な人でその患者と生活環境が非常に似ている人16人を選びまして、それぞれ、何をどこで食べたか、といったことを追跡しました。患者でない人も対象としていれて、比較するという方法を取っているのが特徴だと思います。
 こうして、あるハンバーガーのチェーン店、「ジャック・イン・ザ・ボックス」という店だったと思いますが、ここの店のハンバーガーを患者が食べていたことを、突き止めます。これを突き止めるのに、1週間かかりませんでした。それで、当局は、すぐに、そのチェーン店のハンバーガー25万個の販売を停止させます。この結果、患者は出なくなりました。また、実際、そこの店のハンバーガーからO157も発見されました。これはもう4年前のアメリカの出来事ですが、昨年の日本でのO157騒動では、そのアメリカでの教訓が、十分に生かされませんでした。この理由の1つには、伝染病などの疫学を専門とするが学者が日本では殆どいない、という背景もあります。
 それから、もう1つ、メディア、情報という意味では、現代におきましては、外国のアメリカを中心とした英語圏のインターネットのホームページでは、感染症を対象としたホームページが非常に充実しています。このインターネットを利用しない手はありません。感染症の中でも、国際感染症、輸入感染症などと呼ばれているものについては、インターネットが役立ちます。特に、WHOが昨年末に、「ワールドヘルスレポート1996」という報告書を出しましたが、この1996年度版は、世界の感染症の状況についての特集のような形になっていまして、一読する価値が十分にあります。その「ワールドヘルスレポート1996」の骨子は、インターネットを通して入手することができます。その方法としましては、いわゆるサーチエンジンの例えば「エキサイト」というサーチエンジンで、そのキーワードの欄に、アルファベットで「ワールドヘルスレポート1996」というキーワードを入れると、すぐにそのホームページに繋がります。
 なお、そのワールドヘルスレポート1996の内容を要約したものを、インターネットからとりまして、プリントアウトして、皆さんにお配りしております。このOHPに、そのワールドヘルスレポートでのキーワードをまとめてみましたが、そこには、デング熱のことも、何ヵ所かで出てきます。あとで、ゆっくり読んでいただければ、と思います。
 以上、60年前のデング熱の話から現代のインターネットまで、やっとたどり着けました。とりあえずここで、講演を終わらせていただきます。長時間、お聞きくださいまして、ありがとうございました。